沢村栄治、娘も驚く逸話を紹介!戦死の背景、なぜ3回も軍隊生活だったのか?

こんにちは、3月28日(火)22時から放送の「先人たちの底力 知恵泉」に沢村栄治さんが特集されます。

現在、高校野球やWBCと大いに盛り上がっています。

この盛り上がりは3月開幕のプロ野球リーグにも続いていくと思いますね。

今シーズンもよりいっそう一層と野球熱が上がると思います。

そしてこの環境になるまでに、先人方の多くの犠牲によるものだとも思っています。

その1人が沢村栄治さんですね。

戦争がなければどうなっていた人なのかということは、私が小さいときから教わっていましたが新たに沢村栄治さんについて知りたいと思いますね。

記事は、沢村栄治さんの逸話や戦争招集についての内容となっています。

参考にしていただけたら、これ幸いです。

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沢村栄治(さわむら えいじ)さんのプロフィール

生年月日:1917年2月1日~1944年12月2日

年齢:享年27歳

出身地:三重県伊勢市

身長:174cm

体重:71kg

学歴:京都商業学校(中退)

職業:プロ野球選手

娘も驚く逸話を紹介

1934年11月に開催された読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参戦し、5試合に登板(4先発)。

11月20日、静岡県草薙球場で開催された試合では、メジャーリーグ選抜チームを8回5安打1失点と好投。(スコアは0対1)

17、8歳の年齢であのベーブ・ルース含めた強豪メジャーリーガー相手に4試合も投げるという所がまず考えられないですね。しかも1試合は1失点の好投ですから(笑)

翌1935年、読売ジャイアンツの基礎とプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(巨人軍)に参加。

まだプロ野球チームが1チームしか無かった為、アメリカに遠征を行い、そこでも失敗に終わりますがメージャーリーグのチームからスカウトされます。

そこでも年齢が18歳か19歳ですからもう凄さがわかりますね。^^

1936年、プロ野球リーグが開幕し史上初のノーヒットノーランを達成。

大阪タイガースとの最初の優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらしました。

1937年、24勝・防御率0.81の成績を残して、プロ野球史上初となるMVPに選出。

さらに2度目のノーヒットノーランも達成されるなど、創世記のプロ野球リーグの盛り上げに大きく貢献されます。

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そして最も逸話として語られているのが、身長が174cmだったにも関わらず160kmぐらいの速球を武器にしていた速球王だったという伝説ですね!

1947年、戦争によって無念の死となります。

その功績をたたえ1947年に読売ジャイアンツは沢村選手の背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定します。

永久欠番復活とかよく聞きますが、70年間永久欠番というのもすごい事だと思いますね。

そして現在でも投手にとっても最高の勲章とも言えます「沢村栄治賞」(沢村賞)の設立です!

桑田真澄さん、大野豊さん、斎藤雅樹さん、野茂英雄さんなどレジェンドの人達はもちろん受賞されています。

そして現在、日本を代表するダルビッシュ有投手(テキサス・レンジャーズ)

田中将大投手(ニューヨーク・ヤンキース)

前田健太投手(ロサンゼルス・ドジャース)

等現在も多くの投手が憧れにしている賞なのではないでしょうか!!

そしてプロレスラーの棚橋弘至選手じゃないですが、100年に1人の逸材、沢村栄治さん生誕100年経って現れた大谷翔平選手も間違いなく受賞するでしょう。(笑)

沢村賞という賞がプロ野球発展に一役買っているとも言えます。

そういう意味でも沢村栄治さんの偉大さが改めて確認できますね。(^o^)

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なぜ3回も軍隊生活だったのか?

噂レベルということなのですが、命中率が半端ないということで手榴弾を投げる役目としてはうってつけだったという説。

後輩には思っている以上に戦況は厳しいので体を大切にせよ。

野球を続けたければ手榴弾は投げるなと話していたそうです。

戦争末期に学徒動員(男子15歳以上、女子17歳以上)が召集されるまで理科系の学生は招集を免除されていました。

このため当時の職業野球の選手の中には、大学に進学して学生と兼業することによって召集を免れるケースが多かったそうです。

沢村栄治さんは中等学校(高等学校レベル)中退し巨人軍に入団されています。

その為に3回の軍隊生活を余儀なくされたという説があります。

沢村栄治さんの父親は「もし卒業していたら、慶大に行っていたら、こんなに何度も(召集が)こなかった。」とインタビューに応えています。

1938年(昭和13年)一度目の召集。

中国戦線で左手を銃弾が貫通する大怪我を負うなど体を酷使。

その結果、復員後は160キロを超えるとも称されたストレートの威力が明白に衰え、技巧派投手へと変貌することを余儀なくされます。

1941年(昭和16年)二度目の召集。

フィリピンへ派兵され、2年後の復員時には過酷な軍隊生活で体はボロボロとなりサイドスローともいえるフォームまで腕は下がってしまい、投手失格の烙印を押されてしまいます。

1944年、打者に転向するも球団から解雇宣告を受け現役引退。

職業野球通算63勝22敗、防御率1.74でした。

その年の10月に2度目の招集を受けます。

12月2日フィリピン防衛戦に向かうため乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦「シーデビル」により撃沈され、屋久島沖西方にて戦死。

享年27歳でした。

私は戦争の招集は1回と思っていたのですが、沢村栄治さんを調べてみると全然違った事に改めて戦争の酷さを痛感させられます。

私なりのまとめ!

娘も驚く逸話を紹介

逸話についてはもう沢村賞が残り続ける限り何も言うことはないですね。

ただただ感服する限りです m(_ _)m

なぜ3回も軍隊生活だったのか?

戦争に振り回された人生だったと知り、胸が苦しくなります。

いかに平和が大切なものなのかということも考えさせられました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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