レアルマドリード 歴代監督まとめ!顔写真付きで紹介

こんにちは、常にサッカー界のトップに君臨しています白い巨人・レアルマドリード。

これほどのチームを率いる事は監督冥利につきますが、下手したら今までの実績全てが否定されてしまいます。

今までの監督はどうだったのでしょうか。

今回は、そんなレアルマドリードを率いた(1990年以降)監督達についてまとめてみました。

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Contents

歴代監督まとめ!

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・4年ぶりのリーグを制して連覇に燃えるバルセロナにイングランドの至宝を手に入れ着実に世代交代を図りタイトル奪還に挑むレアルマドリードとのエル・クラシコなど好カード連発のラ・リーガ

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ジョン トシャック

在任期間:1989―1990・1999

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ジョン・ベンジャミン・トシャック

生年月日:1949年3月22日

出身地:ウェールズ・カーディフ

選手時代、カーディフシティでキャリアをスタートさせ、その後リバプールへ移籍。

リバプールでは8年間在籍し数多くのタイトル獲得に貢献します。

そしてスウォンジーシティで選手兼監督を務め1983年に現役を引退しました。

1984年以降は監督業に専念し、スウォンジーシティやスポルティング、レアルソシエダを経て、1989年にレアルマドリードの監督に就任します。

レオベーンハッカー前監督が築き上げたチームは、昨シーズンまでリーグ4連覇を達成しており、クラブ会長(当時)のラモンメンドーサ会長は「過去25年間でレアル・マドリードの最高のチーム」と称されていました。

なのでトシャック監督が就任した1989-90シーズンも、107得点という驚異的な攻撃力を見せ、リーグ5連覇を達成しました。

1990-91シーズンになると、ゲオルゲハジ選手、ルイスミジャ選手、フランシスコビリャローヤ選手らを獲得し、さらにチームを強固なものにしようとしますが、序盤から3連敗を喫するなどチームは低迷。

そして開幕から11試合経過した1990年11月、成績不振で解任となりました。

・1989-90 リーグ 優勝・国王杯 準優勝・チャンピオンズリーグ ベスト16

1999年2月、成績不振で解任されましたフースヒディング前監督の後任として新監督に就任。

就任当初チームは6位に低迷しており、最終的にはなんとか順位を4つ上げ、2位でフィニッシュしました。

翌1999-00シーズンも開幕から負けが重なり8位と低調な滑り出しとなりますが、公の場でGKのアルバノビサーリ選手や、ロレンソサンス会長(当時)はじめ上層部を批判するなど、不協和音発生させてしまうことに。

この状況を重くみた取締役会は解任を決定しますが、後にトシャック監督は法廷闘争に持ち込みます。

結果的にトシャック監督は700,000ポンド以上の補償金を勝ち取ることになりました。

ジョン・トシャック1999年2月から1999年11月までレアル・マドリードをコーチしたウェールズ人

・1998-99 リーグ 2位・国王杯 ベスト4・チャンピオンズリーグ ベスト8

アルフレッド ディ ステファノ

在任期間:1990―1991

出典元:ja.wikipedia.org

本名:アルフレッド・ステファノ・ディ・ステファノ・ラウテ

愛称:金髪の矢、ドン・アルフレッド

生年月日:1926年7月4日

没年月日:2014年7月7日

出身地:アルゼンチン・ブエノスアイレス

選手時代、レアルマドリード史上最高の選手と崇められています。

15歳で名門リーベルプレートの下部組織に入団し、ユース時代からゴールを量産。

その才能に早くもバルセロナが獲得を熱望するも、レアルマドリードも黙っておらず、バルセロナとの契約を白紙にさせ、半ば強奪する形で獲得しました。

1955-56シーズンから、欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)で前人未到の5連覇を達成。

1953年から1964年に退団するまで、リーガでは8度の優勝。

27歳の入団から10年連続で20得点以上を記録し、リーガ歴代6位の得点数を誇っています。

現役引退後はエルチェの監督としてキャリアをスタートさせ、ボカジュニアーズやバレンシア、リーベルプレートなどの監督を歴任し1982年にレアルマドリードの監督に就任。

タイトルにこそ恵まれなかったものの、若手のカンテラ選手を積極的に起用し、エミリオブトラゲーニョ選手、ミチェル選手、マルティンバスケス選手、ミゲルパルデサ選手、マヌエル サンチス オンティジュエロ選手ら、後にチームの中心(キンタ デル ブイトレ)となる礎を築きました。

1990年、成績不振で解任となりましたトシャック監督の後任を任せられることになりました。

しかし戦術的に改善されることはなく、まったくの失敗に終わりシーズン途中で解任。

1991年3月16日、30年前の今日のような日に、ドンアルフレッドディステファノはレアルマドリードのコーチとして彼の最後のリーグ戦を監督していました。コーチとしての彼のキャリアは、1990-91シーズンで終わりに近づいていました。

ラドミル アンティッチ

在任期間:1991―1992

出典元:ja.wikipedia.org

愛称:Raddy(ラディ)

生年月日:1948年11月22日

没年月日:2020年4月6日

出身地:ユーゴスラビア・ジティシュテ

選手時代のポジションはディフェンダー。パルチザン ベオグラードやフェネルバフチェ、レアル サラゴサで活躍。

引退後は指導者の道へ進み、レアルサラゴサでキャリアをスタートさせるとシーズンを5位で終え、UEFAカップの出場権獲得に導きました。

その手腕が評価され、1991年3月成績不振で解任されましたディステファノ監督の後任で、新監督に就任。

低迷していましたチームは最終的にリーグ3位まで上昇させ、そしてなんとか唯一のタイトル・スーペルコパ3連覇へ導きました。

1991-92シーズンは1991年夏に獲得しましたルイスエンリケ選手、ミケルゴイコエチェア選手、ロベルトプロシネチキ選手ら新戦力が活躍するも、バルセロナのドリームチームに対抗出来ず1992年1月、解任となりました。

1992
一日の終わりに、サッカーのディレクターであるラモン・マルティネスとゼネラルマネージャーのレオ・ベーンハッカーは、レアル・マドリードのコーチとしての解任をラドミル・アンティッチに知らせます。当時、チームは3ポイントのアドバンテージでリードしていた。

レアル・マドリードCF、その社長兼取締役会は、1991年3月から1992年1月までレアル・マドリードのコーチを務めたラドミル・アンティッチの死去に深く悲しんでいます。

・1990-91 リーグ 3位・国王杯 ベスト16・チャンピオンズリーグ ベスト8

レオ ベーンハッカー

在任期間:1992

出典元:ja.wikipedia.org

生年月日:1942年8月2日

出身地:オランダ・ロッテルダム

選手時代は無名でしたが、監督としてはアヤックスやレアルサラゴサで実績を残し、オランダ代表を率いた後、「キンタ・デル・ブイトレ」時代(1986~89年)のレアルマドリード監督に就任。

ブトラゲーニョ選手などを擁し、3度のリーグ優勝を果たし名将の仲間入りを果たしていました。

1992年、アンティッチ監督の後任としてシーズン途中で指揮をとると、バルセロナと熾烈な首位争いを展開します。

しかし、最終節でテネリフェに敗れ、バルセロナに優勝をさらわれてしまい、シーズン終了後に退任となりました。

1992年1月から1992年6月までのレアルマドリードのレオベーンハッカーオランダ国籍コーチ

・1991-92 リーグ 2位・国王杯 準優勝

ベニート フローロ

在任期間:1992―1993

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ベニート・フローロ・サンス

愛称:スペインのアリゴサッキ

生年月日:1952年6月2日

出身地:スペイン・アストゥリアス州ヒホン

プロ選手の経験はなく、20代で指導者となります。

地域リーグのクラブを渡り歩いて結果を叩き出し続け、1989-90シーズンに2部B(実質3部)のアルバセテを率い、2部に昇格させます。

1990-91シーズンには1部に昇格させ、一躍、国内で名声が高まりました。

1991-92シーズンには、1部で7位となり、弱小チームで攻撃的な戦いを実現したことにより、記者の投票で1991-92シーズンの最優秀監督に選ばれました。

そして1992-93シーズン、40歳(当時)の若さで、マドリードに革命をもたらす指揮官として招聘されます。

  • スローインによる攻撃を採用
  • コーナーキックの種類を増やし、ショートからニアに早いボールを送って仕留めるパターン
  • 守り方も規律を重んじ、ブロックを作り、正しいポジションを取って、カウンターを発動
  • メンタルトレーナーを導入し、心理的なケアにも努める

など、今までのマドリードでは考えつかなかったシステムを導入し革命を起こしました。

プレシーズンは散々で保守派の反発にあいますが、シーズンが開幕し試合を重ねるたび、調子を上げシーズン途中から22試合負けなし、バルセロナとの試合でも本拠地で返り討ちにするなど、日に日にリーグ優勝を押す声が高まりますが、最終節、首位で迎えたアウエーのテネリフェ戦で敗戦。

結局、勝利を収めたバルセロナが逆転で連覇を果たしました。

リーガを逃してしまいましたが、国王杯でバルセロナを撃破して優勝し、次の1993-94シーズンも監督を続けることになりました。

しかし1993-94シーズンは、スーパーカップでバルセロナを破って優勝するも、リーグでは0-5で敗れる失態を見せます。

さらに国王杯でまたもテネリフェに敗れ、シーズン途中で解任されました。

1993年のコパデルレイを保持しているベニートフローロは、レアルマドリードで優勝した2つのタイトルの最初のものです。

・1992-93 リーグ 2位・国王杯 優勝

ビセンテ デル ボスケ

在任期間:1993―1994・1995―1996・1999―2003

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ビセンテ・デル・ボスケ・ゴンサレス

生年月日:1950年12月23日

出身地:スペイン・カスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県サラマンカ

選手としてはキャリアの大半をレアルマドリードで過ごし、国内リーグ優勝を5度、国王杯優勝4回を経験。

スペイン代表としては「UEFA欧州選手権1980」に出場しました。

現役引退後は、指導者としてレアルマドリードの下部組織でキャリアをスタートさせ、下部組織の責任者として、イケルカシージャス選手などを指導しました。

1994年には成績不振でベニートフローロ監督が解任された際、約2ヶ月間暫定監督としてトップチームを指揮し、1993-94シーズンのスーペルコパ優勝を果たしました。

ビセンテ・デル・ボスケとラファ・ベニテス(1994)、デル・ボスケがレアル・マドリードの世話人マネージャーであり、ラファがレアル・マドリードBチームのマネージャーだったとき

・1993-94 リーグ 4位・国王杯 ベスト8

また1996年には、アルセニオ イグレシアス監督がクラブ首脳陣によって解任された際には1試合だけ指揮したこともありました。

1999年11月にトシャック監督が解任されると、正式にトップチームの監督に就任します。

スター選手を上手く融合させ、まとめ上げる手腕は秀逸で監督として4年間、欧州CL(1999-00,2001-02)と国内リーグ(2000-01,2002-03)を2度ずつ制覇して黄金期を創りました。

しかし、2002-03シーズン終了後、クラブは契約を更新しないと発表。そのまま退団となりました。

  • 1999-00 リーグ 5位・国王杯 ベスト8・チャンピオンズリーグ 優勝
  • 2000-01 リーグ 優勝・国王杯 ベスト4・チャンピオンズリーグ ベスト4
  • 2001-02 リーグ 3位・国王杯 準優勝・チャンピオンズリーグ 優勝
  • 2002-03 リーグ 優勝・国王杯 ベスト8・チャンピオンズリーグ ベスト4

ホルヘ バルダーノ

在任期間:1994―1995

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ホルヘ・アルベルト・フランシスコ・バルダーノ・カステジャーノス

愛称:エル・フィロソーフォ(哲学者)

生年月日:1955年10月4日

出身地:アルゼンチン・サンタフェ州ラス・パレハス

選手時代、ニューウェルズ オールドボーイズでプロデビューを飾り、その後スペインへ渡りアラベスやサラゴサで活躍し1984年にレアルマドリードへ移籍。

1984-85シーズンは17得点、1985-86シーズンには16得点を記録する活躍を見せ、リーグ優勝 (1985-86, 1986-87) やUEFAカップ優勝 (1984-85, 1985-86) に大きく貢献しました。

現役引退後は指導者として、1988年にレアルマドリード・カスティージャでキャリアをスタートさせ、その後テネリフェを指揮し1994年にレアルマドリードの監督に就任。

ラウルゴンサレス選手の才能を見抜きトップチームにデビューさせ、1994-95シーズンには、ヨハンクライフ監督の率いるバルセロナの連続優勝を阻止するリーガ優勝を果たしました。

翌1995-96シーズンも指揮しますか、チームは開幕から低迷してしまいシーズン途中で解任となりました。

1995年。レアルマドリードのトレーニングセッションでのフェルナンドイエロとホルヘバルダーノ。

アルセニオ イグレシアス

在任期間:1996

出典元:ja.wikipedia.org

本名:アルセニオ・イグレシアス・パルド

生年月日:1930年12月24日

出身地:スペイン・ガリシア州ア・コルーニャ県アルテイショ

選手時代は、デポルティーボ ラ コルーニャなどスペイン国内のクラブでプレーし、リーガエスパニョーラで合計50得点を挙げげました。

現役を引退した後は指導者としての道を歩み、1990年からデポルティーボの監督に就任すると、堅実な戦いで頭角を現し「スーペル・デポル」と異名を取りました。

マウロシルバ選手、ベベット選手らブラジル人選手を擁し、1993-94シーズンは最終節にリーガ優勝を逆転で逃しますが、1994-95シーズンにはスペイン国王杯を優勝するなど、1993年、1995年と2度ドン・バロン・アワードの最優秀監督に選出されました。

1996年にはシーズン途中で解任されましたバルダーノ監督の後任として、レアルマドリードの監督に就任。

シーズン途中での指揮のためか、低迷したチームの軌道修正はなかなか上手くいかず、最終的に6位で終え、シーズン終了後に退任となりました。

20年前、「引退した」アルセニオ・イグレシアスは、ホルヘ・バルダーノの代わりに@realmadridで5か月間署名しました。

・1995-96 リーグ 6位・国王杯 ベスト16・チャンピオンズリーグ ベスト8

ファビオ カペッロ

在任期間:1996―1997・2006―2007

出典元:ja.wikipedia.org

愛称:Don Fabio

生年月日:1946年6月18日

出身地:イタリア・フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州サン・カンツィアン・ディゾンツォ

選手時代はASローマやユベントス、ACミランで活躍し、コッパイタリア優勝1回、スクデット4回と多くの勝利を掴みました。

また、イタリア代表でも「1974 FIFAワールドカップ西ドイツ大会」を始め32試合出場8得点を記録しています。

引退後はサッカー解説者を経て、1986-1987シーズンの途中(わずか5試合)にACミランの監督に就任。

その後、1991年にサッキ監督の後任として再びACミランの監督に就任しました。

オランダトリオをはじめフランコバレージ選手、パオロマルディーニ選手、コスタクルタ選手、アルベルティーニといった、数多くのスーパースターを抱え「グランデ・ミラン」(偉大なミラン)や「リ・インヴィンチービリ」(無敵)と呼ばれ、1991-92シーズンの無敗優勝を含め5年間で4度のスクデットを獲得しました。

ACミランで監督としての評価を確立すると1996年にはレアル・マドリードの監督に就任しました。

就任初年度でリーグ優勝を果たすも、規律と組織を重視したチーム作りをし、守備をベースとした手堅い戦術にレアルサポーターから批判を浴び、わずか1年で退任となりました。

1997年のレアルマドリードのトレーニングセッション中のファビオカペッロ。

・1996-97 リーグ 優勝・国王杯 ベスト16

2006年からレアルマドリードの監督に復帰。

銀河系軍団と呼ばれながらも序盤はもたつきますが、徐々にチームを立て直し、最終的にバルセロナと勝ち点で並び、直接対決の結果により4シーズンぶりのリーガタイトルをもたらしました。

しかし、まともや守備的な戦術が批判されシーズン終了後に解任となりました。

ファビオ・カペッロとデビッド・ベッカムが2007年にレアルマドリードでリーガのタイトルを獲得しました。素晴らしい日です。

・2006-07 リーグ 優勝・国王杯 ベスト16・チャンピオンズリーグ ベスト16

ユップ ハインケス

在任期間:1997―1998

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ヨーゼフ・ハインケス

愛称:ユップ

生年月日:1945年5月9日

出身地:ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州メンヒェングラートバッハ

選手時代はボルシアMGのエースとして3連覇に貢献するなどブンデスリーガ通算385試合出場220得点を記録しています。

1978年に現役引退後はボルシアMGで1979~87年まで8シーズン監督を務め、87~91年にはバイエルンで指揮を執り、2度のリーグ制覇を達成。

その後はアスレティックビルバオやフランクフルト、テネリフェを指揮し、1997年にレアルマドリードの監督に就任。

32年ぶりとなるチャンピオンズリーグ優勝に導きましたが、リーグ戦では4位&国王杯でベスト16と国内での結果を残せずわずか1シーズンでの退任となりました。

1998年、ユップ・ハインケスはレアル・マドリードを32年ぶりのヨーロッパタイトルに導きました…そして解任されました。

それ以来、レアルはチャンピオンズリーグで5回優勝しています。

・1997-98 リーグ 4位・国王杯 ベスト16・チャンピオンズリーグ 優勝

ホセ アントニオ カマーチョ

在任期間:1998・2004

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ホセ・アントニオ・カマーチョ・アルファロ

生年月日:1955年6月8日

出身地:スペイン・ムルシア州シエサ

選手時代は15年間レアルマドリードでプレー。

公式戦500試合以上に出場し、リーガエスパニョーラで9度、国王杯で5度、UEFAカップで2度優勝するなど、主要大会で19のタイトル獲得に大きく貢献したレジェンドです。

1989年に現役引退するとレアルマドリードのコーチに就任し指導者としてキャリアをスタート。

1992年にはセグンダ・ディビシオン(2部)のラーヨバジェカーノ監督に就任し、1シーズンでプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格へ導きました。

その後、エスパニョールやセビージャを経て、1998年夏にはレアルマドリードの監督に就任します。

しかし当時クラブの会長のロレンソ サンス氏と対立し首脳陣と意見が合わず、就任からわずか23日間で電撃辞任。

今日のような日… 1998年、カマチョはレアル・マドリードのコーチを辞任しました。彼は22日間しか在職しませんでした。

これまでカマーチョ監督は主義・主張を曲げない昔気質の熱血漢で、名誉や権威よりも筋を通すことを重んじて、融通が利かないためあちこちで衝突してきました。

そして、2004年再びレアルマドリードと2年契約を結び、カルロスケイロス監督の後任監督に就任しましたが、朝と夕方の2回の練習、ホームゲーム前日の合宿など、体をいじめ抜く回数は増え、規律は強化され、プライベートな時間は削られることにロベルトカルロス選手やフィーゴ選手、ジダン選手といった「銀河系の戦士」たちの反感を買うことに。

案の定、2004年9月に行われましたチャンピオンズリーグでは、レヴァークーゼンに0-4と大敗。

その後のリーガでもエスパニョールに0-1と敗れ、首位から4位までずるずると転落するなど選手、そしてクラブフロントとの不協和音が表面化し、就任から4ヶ月、リーグ戦をわずか3試合戦っただけで突如辞任となりました。

ホセアントニオカマチョスペイン国籍は、2004年6月1日から2004年7月1日までレアルマドリードを指導しました

フース ヒディンク

在任期間:1998―1999

出典元:ja.wikipedia.org

生年月日:1946年11月8日

出身地:オランダ・ヘルダーラント州オウデ・アイセルストレーク

選手時代はPSVやデフラーフシャプなどのオランダ国内はじめ、ワシントン ディプロメッツなど米国の舞台でも活躍。

1982年に現役引退し、デ フラーフシャプ、PSVなどで本格的な指導者となりました。

PSV監督時代はオランダリーグ3連覇を達成。そして1988年には、オランダカップ戦、現在のチャンピオンズリーグにあたるヨーロピアンカップも制し、見事トレブルを達成させました。

その後1995年にはオランダ代表を率いて1998年のW杯で4位になった手腕が評価され、解任されましたユップハインケス前監督の後を継ぐべく鳴り物入りでマドリードの監督に就任します。

しかしリーグが開幕すると、クラブの首脳陣や財政状態を批判した上に、まずい結果しか出せず(トヨタカップを獲得したのみ)結局、リーグ6位と低迷する中で解任されました。

オランダのGuusHiddinkは、1998年5月からレアルマドリードのコーチでした。1999年2月にインターコンチネンタルカップを獲得しました。

カルロス ケイロス

在任期間:2003―2004

出典元:ja.wikipedia.org

本名:カルロス・マヌエル・ブリト・レアル・ケイロス

生年月日:1953年3月1日

出身地:ポルトガル領モザンビーク・ナンプラ

選手時代はモザンビークでゴールキーパーとして活躍していましたが、1970年後半にポルトガルへ移住してきて指導者の道へ進みます。

U-20ポルトガル代表を率いて1989年と1991年のFIFAワールドユース選手権を連覇し、その実績を買われてポルトガルA代表監督に就任しましたが、1994年FIFAワールドカップ出場を果たせず解任されました。

その後、名古屋グランパスや南アフリカ代表、マンチェスターユナイテッドのアシスタントコーチを経て2003-04シーズン、レアルマドリードの監督に就任。

デビッドベッカム選手らを獲得し、さらに銀河系軍団は強固になりますが、ケイロス監督がスター軍団を掌握できたのは半年間にすぎず、スーペルコパは優勝するもリーグ後半にはどの大会でも成績がガタ落ちし、リーグ4位に終わって、チームから去らざるをえない状況(解任)となりました。

レアル・マドリードとの2003-04シーズンのエジプトの新しいヘッドコーチCarlos Queiroz

彼は銀河系軍団でのみスペインスーパーカップで優勝しました

・2003-04 リーグ 4位・国王杯 準優勝・チャンピオンズリーグ ベスト8

マリアノ ガルシア レモン

在任期間:2004

出典元:ja.wikipedia.org

生年月日:1950年9月30日

出身地:スペイン・マドリード

選手時代は同年代で最高のGKとして高く評価され、1966年にレアルマドリードに加入。

それから約20年にわたってクラブを支え、12ものタイトルをもたらしました。

1986年の引退後は複数のクラブを渡り歩き、スカウトやカンテラの監督、トップチームのアシスタントコーチなどを担当。

その後はスポルティング ヒホン、アルバセテ、ラスパルマス、サマランカ、マヌンシア、コルドバで指揮を執りました。

2004年にはアシスタントコーチでレアルマドリードに復帰し、ホセ アントニオ カマーチョ前監督の後任として新監督に就任。

しかしわずか3ヶ月で解任され、ヴァンデルレイ ルシェンブルゴ氏にチームを引き継ぎました。

マリアノガルシアレモンスペイン国籍は、2004年7月1日から2004年12月30日までレアルマドリードを指導しました

ヴァンデルレイ ルシェンブルゴ

在任期間:2004―2005

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ・ダ・シウヴァ

生年月日:1952年5月10日

出身地:ブラジル・リオデジャネイロ州ノヴァ・イグアス

選手時代、フラメンゴでプロデビューを果たし、インテルナシオナルやボタフォゴでもプレー。

膝の怪我のために1980年に28歳で現役引退。引退後は指導者としてフラメンゴやパルメイラスなど、様々なブラジルのクラブを渡り歩き、5度のブラジル選手権優勝に導きます。

1998年からはブラジル代表を率いて1999年のコパアメリカで優勝を果たしましたが、「2002 FIFAワールドカップ」南米予選での不振が続き、2000年のシドニーオリンピックを最後に解任されました。

2004年12月にレアルマドリードの監督に就任。

就任当時は首位のバルセロナに勝点13差の5位に低迷していましたが、2004-05シーズンは2位という成績で終え、2005-06シーズンも引き続き指揮を執ることに。

2005年夏の移籍市場ではセルヒオラモス選手、ロビーニョ選手、ジュリオバチスタ選手、パブロガルシア選手、カルロスディオゴ選手らなど大型補強を行い3シーズンぶりとなるリーグ優勝を狙いますが、チャンピオンズリーグのグループリーグ初戦、オリンピックリヨン戦で0-3で敗退、続くリーグ戦・バルセロナとのエルクラシコに0-3のスコアで敗れると、2005年12月4日に監督を解任されました。

レアル・マドリードの時代のヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ、ラウル・ゴンサレス、デビッド・ベッカム

・2004-05 リーグ 2位・国王杯 ベスト16・チャンピオンズリーグ ベスト16

フアン ラモン ロペス カロ

在任期間:2005―2006

出典元:ja.wikipedia.org

生年月日:1963年3月23日

出身地:スペイン・アンダルシア州セビリア

選手時代はベティスやCDフエンヒローラなどで活躍し、指導者への道へ進みました。

マヨルカの下部組織や中国大連と深圳FCで指揮を執ると、2001年からレアルマドリーの下部組織にて監督を務め、育成に従事していました。

2005年12月、当時のリザーブチームの監督からルシェンブルゴ監督の後を引き継ぎトップチームの監督に就任。

しかし、数多のエゴイスティックな選手たちを束ねる有効な方策は持ち合わせておらず、チームは低迷。

2006年2月に行われましたチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦ファーストレグのアーセナル戦と、リーガエスパニョーラにおけるRCDマヨルカ戦での連敗するなど、3季連続の無冠に終わり成績不振のため解任となりました。

フアン・ラモン・ロペス・カロスペイン国籍は、2005年12月3日から2006年7月5日までレアル・マドリードを指導しました。

・2005-06 リーグ 2位・国王杯 ベスト8・チャンピオンズリーグ ベスト16

ベルント シュスター

在任期間:2007―2008

出典元:ja.wikipedia.org

生年月日:1959年12月22日

出身地:ドイツ・バイエルン州アウクスブルク

西ドイツ(当時)が生んだ最高級のファンタジスタ。

圧倒的なテクニックと創造性で、ジーコ、プラティニに並ぶ80年代を代表するトップ下と言われています。

国内のケルンやレーバークーゼンはじめ、バルセロナやレアルマドリード、アトレティコマドリードといったスペインのビッグクラブでも大活躍しました。

引退後は指導者の道へ進み、1997年にSCフォルトゥナ ケルンでキャリアをスタートさせ、1.FCケルンやシャフタールドネツク、レバンテ、ヘタフェを指揮し、ヘタフェでは2006-07シーズンの国王杯・準決勝でバルセロナを破り決勝進出に導くと、その手腕が評価され2007-08シーズンからはレアルマドリードの監督に就任しました。

2007年夏にペペ選手、クリストフメッツェルダー選手、ハビエルサビオラ選手、ヴェスレイスナイデル選手、アリエンロッベン選手、ガブリエルエインセ選手といった大型補強を遂行し、リーガ・エスパニョーラ2連覇を果たしました。

しかし、2008-09シーズンは主力の故障が相次いだこともあり、首位バルセロナから勝ち点差9の5位(2008年12月時点)という不振に陥り、2008年12月には成績不振を理由に解任されました。

1 / 31-2007 / 08シーズン、@RealMadridは史上31回目のリーグチャンピオンを宣言しました。彼はベルント・シュスターの指揮下でそうしました。ベルント・シュスターは、リーグタイトルを獲得した最初で唯一のドイツ人コーチになりました。

・2007-08 リーグ 優勝・国王杯 ベスト16・チャンピオンズリーグ ベスト16

ファンデ ラモス

在任期間:2008―2009

出典元:ja.wikipedia.org

本名:フアン・デ・ラ・クルス・ラモス・カーノ

生年月日:1954年9月25日

出身地:スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダー・レアル

選手時代はエルチェ、アルコヤーノ、アリカンテといったスペインの下部リーグにいて、目立つ実績は残せていません。

28歳のとき膝の負傷が原因で引退、指導者としてアルコヤーノでキャリアをスタートさせました。

バルセロナのユースで指揮するなど、下の方のクラブからはじめて、少しづつ自分の地位を上げていき、2006年と2007年にはセビージャを、UEFAカップを2年連続で優勝に導く快挙を達成させました。

2008年12月にはベルントシュスターからチームを引き継ぐ形でレアルマドリードの監督に就任

当然壊滅的チーム状況は改善されることはなく、ペップグアルティオラ監督率いるバルサに対して2-6という記憶に刻まれる大敗北を喫し、チャンピオンズリーグでもベスト16のリヴァプール戦でひっそり敗退となり、シーズン終了後に退任となりました。

エスパニョールのマウリシオ・ポチェッティーノ監督とレアル・マドリードのファンデ・ラモス監督は、リーガ・エスパニョーラの試合2009

・2008-09 リーグ 2位・国王杯 ベスト32・チャンピオンズリーグ ベスト16

マヌエル ペジェグリーニ

在任期間:2009―2010

出典元:ja.wikipedia.org

本名:マヌエル・ルイス・ペレグリーニ・リパモンティ

生年月日:1953年9月16日

出身地:チリ・サンティアゴ・デ・チレ

選手時代、キャリアの大半を母国のウニベルシダ・デ・チリでプレー。

1988年に指導者としてウニベルシダ・デ・チリでキャリアをスタートさせ、U-20チリ代表監督、CDパレスティーノ、CDオヒギンスなどを歴任。

その後、アルゼンチンのサン ロレンソやリバープレートといった名門を率いて結果を出し、2004-05シーズンにビジャレアルの監督に就任しました。

2004-05シーズンに3位に躍進させ、翌シーズンにはクラブを史上初の欧州CL準決勝に導き、2008-09シーズンにも同準々決勝に進出して注目を集めました。

また、国内リーグでは2007-08シーズンに2位になるなど、それらの実績が認められ2009-10シーズンからは満を持してレアルマドリードの監督に就任します。

当時の史上2番目に高額な移籍金でカカ選手を、当時の史上最高額となる移籍金でクリスティアーノロナウド選手を獲得したほか、カリムベンゼマ選手、シャビアロンソ選手、ラウールアルビオル選手、アルバロアルベロア選手らといった大型補強で打倒バルセロナを目指しました。

しかし、スペインリーグだけで96ポイントを稼ぎましたが、グアルディオラ監督のバルサはあまりにも強く99ポイントで優勝し2位に終わりました。

さらに、カップ戦では3部チームのアルコルコンに敗れて屈辱を嘗め、チャンピオンズリーグでもリヨン戦で早々と敗退するなど、無冠に終わり、結局シーズン終了後に解任となりました。

レアル・マドリードに解任されたマヌエル・ペレグリーニ

「私たちは96ポイントを獲得し、102ゴールを記録しました。すべて、クリスティアーノが3か月間負傷しました。私は、3〜4年間そこにいて、タイトルを獲得できればよかったと思います。」

・2009-10 リーグ 2位・国王杯 ベスト32・チャンピオンズリーグ ベスト16

ジョゼ モウリーニョ

在任期間:2010―2013

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ジョゼ・マリオ・ドス・サントス・モウリーニョ・フェリックス

愛称:Special One

生年月日:1963年1月26日

出身地:ポルトガル・セトゥーバル

選手時代は無名でしたが、通訳から監督として独り立ちすると、ベンフィカ、レイリアといった母国のクラブでキャリアを積み、2002年にポルトの監督に就任。

2003-04シーズンには欧州CL優勝を果たし、一躍脚光を浴び、チェルシーを経て2008年6月2日、解任されたマンチーニ監督の後任としてインテル監督就任しました。

緻密な戦術と絶大な求心力を発揮させ、2008-09シーズンは就任3ヶ月でスーペルコッパ・イタリアーナを制すると、リーグでも優勝を果たし二冠を達成。

2009-10シーズンはチェルシー、CSKAモスクワ、バルセロナ、そしてバイエルンミュンヘンといった各国の強豪を破り45年ぶりのチャンピオンズリーグ優勝を獲得。

さらにセリエA、コッパイタリアも制し、イタリア史上初の三冠に導いた監督として多くのファンを熱狂させました。

2010年のFIFA最優秀監督賞を受賞すると、レアルマドリードに引き抜かれる形で監督に就任。

就任初年度は序盤から好調を維持してリーグ首位にたっていましたが、初となるエルクラシコで5-0の大敗を喫して2位に転落。

驚異的なペースで勝ち点を積み重ねるバルセロナに及ばずリーグ戦2位に終わりましたが、チャンピオンズリーグでは6年連続でベスト16止まりだったチームをベスト4にまで進出させ、国王杯決勝でバルセロナを1-0で破り、18年ぶりの優勝を果たしてバルセロナのトレブルを阻止しました。

2011-12シーズンはカンプノウでバルセロナに完勝するなど、前人未到の121得点を記録し、史上初の勝ち点100を獲得で、4年ぶりのリーグ制覇を達成。打倒バルサ&グアルディオラの念願を叶えました。

2012-13シーズンはスーペルコパ優勝を果たしますが、リーガは2位、チャンピオンズリーグはベスト4、国王杯は準優勝に終わり、シーズン終了後にクラブ側との合意で契約を解消し、マドリードを退団しました。

知ってますか?ジョゼ・モウリーニョのレアル・マドリードは、今でも1シーズンで最も多く得点したゴールの記録を保持しています。彼らは2011年から2012年のシーズンに121ゴールを記録しました。

  • 2010-11 リーグ 2位・国王杯 優勝・チャンピオンズリーグ ベスト4
  • 2011-12 リーグ 優勝・国王杯 ベスト8・チャンピオンズリーグ ベスト4
  • 2012-13 リーグ 2位・国王杯 準優勝・チャンピオンズリーグ ベスト4

カルロ アンチェロッティ

在任期間:2013―2015・2021―

出典元:ja.wikipedia.org

愛称:カルレット

生年月日:1959年6月10日

出身地:イタリア・レッジョ・エミリア県レッジョーロ

現役時代はミランで主力として欧州CL(当時はチャンピオンズ・カップ)の連覇を経験。

ディエゴ・マラドーナへの試合前のトリビュート中に、カルロ・アンチェロッティの目に涙が溢れています。 2人は、ナポリとACミランの間の壮大な対決で何度も対決しました。アンチェロッティは今週のディエゴで「彼は私の対戦相手だったので、彼は私の友達になった」と語った。

引退後は監督としてレッジャーナ(当時セリエB)でキャリアをスタートさせ、パルマ、ユベントスを経て、2001-02シーズン途中にテリム前監督の後任で古巣ミランの監督に就任しました。

シーズン途中からの指揮でしたが、最終的には低迷していたチームを4位でフィニッシュさせ、再びチャンピオンズリーグ出場権を獲得。

ベルルスコーニ会長からの信頼を得ると、8年間の長期政権を築き、リーグ優勝1度、欧州CL優勝2度のタイトルに恵まれ名将の地位を不動のものとしました。

その後、チェルシーやパリサンジェルマンでリーグ制覇を達成させると、2013年6月にレアルマドリードの監督に就任。

当時の史上最高額ともいわれる移籍金でガレスベイル選手を獲得すると、ベンゼマ選手、ベイル選手、クリスティアーノロナウド選手による3トップ、BBC(それぞれの頭文字)を形成。

国王杯を優勝を果たしたほか、チャンピオンズリーグ優勝し、大会の前身にあたるUEFAチャンピオンズカップの優勝回数と合わせて合計10回目の優勝となるラ・デシマ(la décima)を達成に貢献する大爆発しました。

2年目の14-15シーズン、前半戦はサッカー史上3番目の記録となる22連勝を果たすなど好調でしたが後半戦に入ると失速。

UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップは制覇したもののリーグは2位、国王杯はベスト16、チャンピオンズリーグはベスト4と主要タイトルでは無冠で終了、シーズン終了後に解任されました。

カルロ・アンチェロッティがチャンピオンズリーグの隣でポーズをとり、2014年リスボンで開催されたレアルマドリードのヨーロピアンカップの隣でポーズをとっています。

10番目のCARLETTO!

  • 2013-14 リーグ 3位・国王杯 優勝・チャンピオンズリーグ 優勝
  • 2014-15 リーグ 2位・国王杯 ベスト16・チャンピオンズリーグ ベスト4

2021年6月1日、エバートンの監督を辞任してレアルマドリードに復帰し、2024年まで契約を結びました。

カルロ・アンチェロッティ:「クラブとの連絡が途絶えたことはありませんでしたが、レアル・マドリードからのオファーは素晴らしい驚きでした。それが私次第だとしたら、私は一生滞在するでしょう。サッカーと住むのにこれ以上の場所はありません。」

ラファエル ベニテス

在任期間:2015―2016

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ラファエル・ベニテス・マウデス

愛称:ラファ、ラファリューション

生年月日:1960年4月16日

出身地:スペイン・マドリード

現役時代は無名でしたが、指導者としてバリャドリードやオサスナ、テネリフェといった中小クラブで実績を積み重ねると、2001-02シーズンに就任したバレンシアではいきなり国内リーグを制覇し一躍注目される存在に。

そして2003-04シーズンには国内リーグとUEFA杯の2冠を達成すると、2004-05シーズンからはリバプールの監督に就任。

就任初年度にUEFAチャンピオンズリーグ優勝。2006年にはFAカップ優勝を果たし、2007年にはUEFAチャンピオンズリーグ準優勝と、国内外のカップ戦に強く、カップ戦のスペシャリストとの異名も。

結局、退任までにプレミアリーグのタイトルを獲得することはできませんでした。

その後、チェルシーとナポリを指揮し、2015年6月にレアルマドリードの監督に就任。

クラブ史上初となる公式戦開幕4試合連続完封記録を達成するも、国王杯ではカディス戦で出場停止処分中のデニスチェリシェフ選手を先発出場させる規約違反を犯したことで失格処分を受けベスト32に終わったことや、リーグ戦ではエル クラシコでの大敗など、チームが求める程の成績を治める事が出来ず、2016年1月に解任となりました。

ラファエル・ベニテス:

2015年6月3日:
レアル・マドリードの任命されたコーチ。

2016年5月11日:
ニューカッスルとのチャンピオンシップに降格。

ジネディーヌ ジダン

在任期間:2016―2018・2019―2021

出典元:ja.wikipedia.org

本名:ジネディーヌ・ヤジッド・ジダン

愛称:ジズー (Zizou)、マエストロ(巨匠)

生年月日:1972年6月23日

出身地:フランス・マルセイユ

フランスの名手で「マエストロ(巨匠)」の異名を持つ伝説的プレーヤー。

現代サッカーで必要とされる要素を最高レベルで兼ね備え、1998ワールドカップ、EURO2000、チャンピオンズリーグ(レアルマドリード2001-02)といった主要タイトルを勝ち取り、バロンドールに1度、FIFA最優秀選手賞にも3度選出されています。

引退後は2013年に指導者ライセンスを取得し、カルロアンチェロッティ監督のアシスタントコーチを務めました。

2014年からはレアル カスティージャ(Bチーム)の監督に就任し、2016年にはトップチームの監督に昇格し、リーガでは2位に終わるも、チャンピオンズリーグでは優勝に導きました。

この優勝で、史上7人目となる選手・監督の両方でチャンピオンズリーグ(旧チャンピオンズカップも含む)優勝を達成した人物となりました。

2016-17シーズン、補強は実質ゼロにもかかわらず、過密日程も考慮してローテーションを敷いて選手の体調管理に気を配り、欠場を嫌うことで有名なエースのFWロナウドですら例外なく休養を与えると、2011-2012シーズン以来、5年ぶりのリーグ優勝を果たしました。

さらにUEFAチャンピオンズリーグ改称後初の二連覇という快挙を成し遂げました。

またレアルマドリード史上、1957-58シーズン以来、59年ぶりの二冠達成。

2017年にはオンズドール年間最優秀監督賞とFIFA最優秀監督賞を受賞しました。

2017-18シーズンはチャンピオンズリーグ3年連続で決勝に勝ち進み、リヴァプールを下して大会初の3連覇を成し遂げましたが、国内ではリーグ戦では3位、国王杯では準々決勝で敗退、その結果をうけて2017-18シーズン後に退任となりました。

  • 2015-16 リーグ 2位・国王杯 ベスト32・チャンピオンズリーグ 優勝
  • 2016-17 リーグ 優勝・国王杯 ベスト8・チャンピオンズリーグ 優勝
  • 2017-18 リーグ 3位・国王杯 ベスト8・チャンピオンズリーグ 優勝

2019年3月、成績不振により解任されたサンティアゴソラーリ前監督の後任として復帰を果たしますが、時既に遅しでパフォーマンスを一変させるまでには至らず、リーグ3位で終わりました。

2019-20シーズンは再建に向けて全権を与えられると、特定の選手に頼らない攻撃と堅守(リーグ最少の25失点)をチームに植え付け3年ぶり2度目のリーグ優勝を実現しました。

しかし2020-21シーズンは補強を行わなかったことに加え、シーズン開幕から怪我人が相次ぎ選手層の薄さを露呈してしまい無冠に終わると、シーズン終了後の2021年5月27日に辞任したことが発表されました。

  • 2018-19 リーグ 3位・国王杯 ベスト4・チャンピオンズリーグ ベスト16
  • 2019-20 リーグ 優勝・国王杯 ベスト8・チャンピオンズリーグ ベスト16
  • 2020-21 リーグ 2位・国王杯 ベスト32・チャンピオンズリーグ ベスト4

フレン ロペテギ

在任期間:2018

出典元:ja.wikipedia.org

本名:フレン・ロペテギ・アルゴテ

生年月日:1966年8月28日

出身地:スペイン・ギプスコア県アステアス

選手時代はGKとしてレアルマドリードやバルセロナに在籍するも出場機会に恵まれず、ログロニェスやラージョバジェカーノに移籍して活躍しました。

2003年夏、セグンダ・ディビシオン(2部)のラージョ監督に就任してキャリアをスタートさせ、その後、若年世代のスペイン代表やポルト、スペインフル代表としての監督キャリアを積み重ねました。

2018年6月には、ジダン前監督の後任としてレアルマドリードの監督に就任しますが、スペイン代表監督との二重契約などが問題になりロシアW杯本大会直前にスペイン代表監督を解任されてしまいます。

プロジェクトはまったく後ろ向きの流れで始まり、ジダン前監督が残したチームを自分好みに組み立て直す暇もなく、0-5でバルサに敗れるなど、チームは公式戦での496分にも及ぶクラブ史上最長の無得点記録を樹立。

深刻な得点不足に苦しみ、シーズン途中で解任されました。

ジュレン・ロペテギ、タイムライン
2018年6月から10月:

•ワールドカップの2日前にスペインのマネージャーとして解雇
•6-2-6レコード(すべてのコンプ)-リーガで9位
•エルクラシコのバルサ戦で5-1で敗退
•レアル・マドリードの監督として解雇

サンティアゴ ソラーリ

在任期間:2018―2019

出典元:en.wikipedia.org

本名:サンティアゴ・エルナン・ソラーリ・ポッジオ

生年月日:1976年10月7日

出身地:アルゼンチン・サンタフェ州ロサリオ

選手時代、名門リーベルプレートでプロデビューを果たすと、アトレティコマドリードやレアルマドリード、インテルミラノで活躍し、リーグ制覇に貢献しました。

2013年からレアルマドリードの下部組織で指導者となり、カデテA(U-16)、フベニールA (U-19) 、カスティージャ(Bチーム)の監督を歴任。

2018年10月には成績不振で解任となりましたフレンロペテギ前監督の後任として暫定監督に昇格しました。

トップチームを率いると3試合連続完封勝利に導き、そして就任以来、4戦全勝を達成させるなど、首脳陣もこの成績を高く評価して、2018年11月には正式な監督となりました。

一時はリーグ2位に浮上し、首位バルセロナに勝ち点6差に詰め寄りましたが、2019年2月の対ジローナ戦の敗戦から宿敵バルセロナに二連敗を喫するなどチームは低迷します。

さらにチャンピオンズリーグベスト16の対アヤックス戦では第一戦で勝利しながら、ホームの第二戦で1-4(2試合合計3-5)の逆転負けを喫して今季の無冠が決定的となったことから3月11日に解任となりました。

2019年3月、レアルマドリードの選手のグループがサンティアゴソラーリに不満を抱いたことが広く報告されました。そのグループには、イスコ、マルセロ、ケイラーナバス、ベール、アセンシオが含まれていました。

彼はずっと彼らを彼の計画に含めないのは正しいのでしょうか?

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・4年ぶりのリーグを制して連覇に燃えるバルセロナにイングランドの至宝を手に入れ着実に世代交代を図りタイトル奪還に挑むレアルマドリードとのエル・クラシコなど好カード連発のラ・リーガ

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私なりのまとめ

やはりビッグクラブだけあって、勝敗はもちろん、レアルらしい勝ち方をしないと評価されない事は監督人事からわかります。

90年以降は「レアル監督=短命政権」というのが定説になっており、その中で3年以上指揮したデルボスケ監督やモウリーニョ監督、ジダン監督が、どれだけ凄いことをやっていたかわかりますね。

そしてアンチェロッティ現監督も、今シーズン途中で解任されなければ、3年指揮したことになるので期待しましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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