トッティ 歴代の背番号を調査!10以外の背番号が気になる

こんにちは、強烈なカリスマ性と創造性豊かなプレーで、イタリア代表やASローマを牽引してきましたフランチェスコトッティ選手。

約25年間、ASローマ一筋で戦った勇姿は、多くのロマニスタ達の脳裏に今でも焼き付いていることでしょう。

今回は、そんなトッティ選手についてまとめてみました。

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プロフィール

愛称:イル・プリンチペ(王子様)、イル・グラディアトレ(偉大なグラディエーター)

生年月日:1976年9月27日

出身地:イタリア・ラツィオ州ローマ県ローマ

身長:180cm

体重:82kg(現役時)

ポジション:FW/MF

利き足:右足

【プレースタイル】

  • 自らシュートまで持っていける得点力があるFWに近い攻撃的MF。
  • 高いテクニックとパスセンスだけでなく、強靭なフィジカルも併せ持っている。
  • 強烈なミドルシュートやダイレクトボレーシュート、ヘディングも得意で攻撃に関しては穴(欠点)が少ない。
  • ダイレクトパスやヒールパス、チップキックを多様する。

歴代の背番号を調査!

ASローマ(1993-2017)

幼少の頃はストリートサッカーに明け暮れ、ローマのヴェトゥロニア通りでサッカーのスキルを磨いたそうです。

そのスキルの高さは、当時ジュニア世代で圧倒的な強さを誇っていたACミランのスカウトの目に留まるほどでした。(母親が入団打診を拒否)

13歳でローマの下部組織に入団し、「ローマのユースにすごいヤツがいる」とすぐに噂になりました。

16番(1993-1995)

1993年3月、ブレシア戦に出場。16歳でトップチームデビューを飾り、2-0での勝利に貢献しました。

ちなみにボスコフ監督(当時)にミハイロビッチ選手がトッティ選手を推薦し、デビューに至ったというエピソードがあります。

1993-94シーズンから、セカンドストライカーとして徐々に起用され、1994年9月のフォッジャ戦でセリエA初得点を記録。シーズン途中からはレギュラーに定着します。

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20番(1995-1996)

3シーズンに掛けて計16得点を記録、マッツォーネ監督(当時)からもその才能は高く評価されていました。

17番(1996-1997)

チームは12位と低迷しマッツォーネ監督は解任されます。そして新たにアルゼンチン人のカルロスビアンチ氏が監督に就任。

ビアンチ監督は街でアイドル扱いされていたトッティ選手が気に入らず、「甘えた赤ん坊」と決めつけ厳しく当たり出場機会を与えませんでした。

さすがにこのときは移籍を考えたらしく、サンプドリアへのレンタル移籍寸前となっていましたが、フランコセンシ会長(当時)が土壇場で合意を破談にし、一転ローマ残留となりました。

1996-97シーズン中、若いフランチェスコの最初のセリエAのフリーキック

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10番(1997-2017)

1997-98シーズンから背番号が10になり、監督もビアンチ氏からズデネクゼーマン氏に変わります。

当初はFWでしたがゼーマン監督の指導のもと司令塔にコンバートされます。

ある程度の自由なプレーを与えらたトッティ選手は・・

  • 司令塔でありながら積極的にシュートを打つなど、多くの得点シーンに絡む。
  • それでいて柔らかいタッチのパスやクロスといったアシストも供給する。

といった欠点の少ない万能型の世界的な選手へと進化します。

セリエAの全試合で計13得点を記録し、イタリアのサッカー専門誌「グエリン・スポルティーボ」が選出した年間最優秀選手に与えられる賞であるグエリン・ドーロを受賞しました。

また1998-99シーズンから、わずか22歳の若さでセリエAにおける史上最年少のキャプテンに任命され、ローマのシンボル的選手となりました。

ゼーマン監督での2シーズン、計30得点26アシストを記録しています。

1999年6月、ファビオカペッロ監督が就任するとトッティ選手のパスセンスと創造性の高さを生かすために、3-4-1-2フォーメーションを採用。

ガブリエルバティストゥータ選手、エメルソン選手、ワルテルサムエル選手、マルコデルヴェッキオ選手、ヴィンチェンツォモンテッラ選手といった世界的な選手達を操る役割を担うと、悲願の18シーズンぶりのスクデット獲得(2000-01シーズン)。2003-04シーズンには2位に食い込みUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献しました。

トッティ選手自身も・・・

  • セリエA最優秀選手およびセリエA最優秀イタリア人選手に選出。(2000年)
  • 2年連続でのセリエA最優秀イタリア人選手に選出。(2001年)
  • セリエAで自身最多となる20得点を記録し2度目のセリエA最優秀選手に選出。(2004年)

と、イタリアサッカー界最高のファンタジスタと評価されるようになりました。

ちなみにこの時代といった中田英寿選手ですね。トッティ選手とのライバル関係が大きな話題となっていました。

後に中田英寿さんはスカイスポーツのインタビューでこう語っていました。

「僕らはライバルだったから、仲良くやっていくのは難しかった。だけど、ふたりとも間違いなくプロフェッショナルだ。ピッチにはそういう気持ちは持ち込まなかった」

当時はかなりバチバチやっていたようです。

2004-05シーズンにはセリエA通算100得点を達成させ、さらに通算107得点と記録を伸ばし、ロベルトプルッツォ氏を抜き、ローマのクラブ史上最も多くの得点を記録した選手となりました。

またルチアーノスパレッティ監督(当時)によって形成された「0トップ」・「偽9番」と呼称されるシステムにより、トッティ選手の能力がさらに引き出され、2006-07シーズンにはセリエAではキャリアハイの26得点を記録し、自身初となるセリエA得点王を獲得。

そして通算151ゴールと現役選手の中で最多となりました。

同時にヨーロッパにおける年間最多得点者に与えられるゴールデンブーツ賞を受賞しています。

2010-11シーズンにはロベルトバッジョ選手の記録を超えるセリエA通算206ゴールを決め、歴代5位に浮上。

以降は、怪我の影響や経営陣の交代・ラニエリ監督との確執が話題となり、出場機会が減りつつもチームプレーに撤しセリエAの通算出場500試合を達成します。

2013-14シーズンは再び偽9番として起用される機会が増加。

連携のハブとして多種多様な攻撃パターンをリードし、8ゴール10アシストの結果でシーズンを終え、同シーズンにおけるアシスト数1位をマークしました。

2015-16シーズン、起用法をめぐりスパレッティ監督と揉めつつも、終盤7試合で4ゴール・2アシストと躍動し、史上3人目のセリエA 600試合出場を達成しました。

ラストイヤーとなった2016-17シーズンには「通算25シーズン連続出場」・「23シーズン連続得点」・「セリエA第3位タイとなる通算出場試合数615試合」といった金字塔を打ち立てますが2017年7月、ローマより正式に引退が発表されました。

ローマでは通算619試合に出場・250得点を記録しています。

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代表の歴代背番号を調査

17番

1998年10月におこなわれましたUEFA欧州選手権予選のスイス戦でA代表デビュー(背番号)を飾りました。

デビューシャツ:トッティ、イタリア
1998年のこの日、フランチェスコ・トッティはイタリアでデビューし、70分にデルピエロに出場しました。vスイスは#17シャツを着ています。

20番

2000年4月におこなわれましたポルトガルとの親善試合で代表初ゴールを決めます。

EURO2000ではグループステージ2回戦のベルギー戦で国際主要大会での初ゴールを決めると、準決勝オランダ戦ではPK戦にもつれ込み、名手・ファンデルサール選手からチップキックでゴールを奪い、観客の度肝を抜きました。

フランチェスコ・トッティがユーロ2000でエドウィン・ファン・デル・サールと対戦したとき…

準優勝に終わりました決勝のフランス戦でも見事なアシストを決め、らしいプレーを披露しました。

10番

しかし、背番号10を引き継いだ2000年以降は、いまひとつ輝きをはなてませんでした。

2002年、日韓共催のワールドカップではベスト16の韓国戦で退場し、チームも1-2で敗れました。

EURO2004では予選リーグ、デンマーク戦で相手選手の顔面に唾を吐いたシーンが映像に残ったため3試合出場停止処分を受けイタリア敗退の原因を作りました。

2006年2月、エンボリ戦においてバックチャージをうけ転倒し足を骨折、靭帯損傷と大怪我を負いました。

手術は上手くいったとはいえ、イタリア国民、そしてリッピ率いる代表もトッティのWカップ出場は不可能だろうと考えていたが、脅威の回復力を見せ、みごとWカップ代表に選出されます。

本調子ではないものの決勝戦を含む全7試合全てに出場。

決勝トーナメント1回戦、オーストラリア戦では決勝のPK(後にFIFAが誤審を認め、ブラッター会長はオーストラリアに謝罪)を決め、イタリアの優勝に貢献しました。

度重なる負傷やローマでのプレーに専念したいとの理由により、2007年7月20日に代表引退を発表。

代表では58試合に出場して9ゴール22アシストを記録しています。

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現在について

現在は、2020年2月に自ら設立した選手のスカウトやコンサルタントを行う会社で働いています。

トッティ選手は現役引退後の2017年7月からローマのSD(スポーツディレクター)への就任していましたが、ジェームズ・パロッタ元会長や幹部らとの間に確執が生じ、2019年6月にSDを辞任を発表していました。

ちなみにスポーツディレクターは、選手の獲得・放出の際の相手チームとの移籍金などの交渉や、所属選手の契約の条件の調整などが主な仕事です。

私なりのまとめ

ローマのSDに就任しているときにライセンス取得を断念したいう報道があったので、しばらくは選手のスカウティングやコンサルタント業務に力を入れるものと考えます。

しかし、将来的には何らかの形でローマに復帰するというサポーターも多いと思います。

なので今後の展開に期待したいですね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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