ロベールピレス 歴代の背番号を調査!現在の活動も気になる

こんにちは、抜群のテクニックで相手守備陣を混乱させ、フランス代表や各チームで数々の勝利を掴んできましたロベールピレス選手。

特にアーセナルでの影響力は絶大でクラブ史上最高との呼び声も高く、アーセナルの攻撃を彩った技巧派MFのプレーは今でも多くのファンに愛されています。

今回はそんなピレス選手についてまとめてみました。

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プロフィール

本名:ロベール・エマニュエル・ピレス

愛称:ボビー、スーパー・ロブ

生年月日:1973年10月29日

出身地:フランス北部グラン・テスト地域圏マルヌ県ランス

身長:187cm

体重:80kg(現役時)

ポジション:MF

利き足:右足

【プレースタイル】

  • センス溢れるテクニカルなドリブルやパスを駆使し、ゲームメイクからチャンスメイク、フィニッシュに至るまで全てが一級品。
  • 技術、スピード、運動量、頭脳を高次元で兼ね備えたサイドハーフ(主に左)。
  • 空中戦と直接FK以外は何でもこなすユーティリティ性に優れた選手。

歴代の背番号を調査!

ランス近郊にあるクラブ、ランス・サンタンヌに8歳時に入団。

クラブの一員として11歳以下の全国大会で優勝しその後、シャンパーニュ地方を代表するスタッド・ランスに移籍しました。

スタッド・ランスのジャージを着たロベール・ピレス。
1991/1992シーズン中、彼はD3で5回の最初のチームマッチを行いました。

7番(メス:1993-1998)

1992年にはFCメスとプロ選手契約をし1993年4月、リーグ・アンデビューを飾りました。

デビューして早々から才能を発揮し1994-95シーズンからはチームの中心選手となります。

FWのシリル・プジェ選手とのコンビ「PPガンマンズ」で旋風を巻き起こし、「クープ・ドゥ・ラ・リーグ」(リーグカップ)優勝に大きく貢献しました。

ネイマールとエムバペのずっと前の1990年代半ば、FCメスでリーグ1のディフェンスを恐怖に陥れたのは、デュオのロベールピレス(シリルプージェ)でした。

1997-98シーズンには最終節で優勝を逃しましたが、クラブ歴代最高成績となるリーグ2位を記録。チーム躍進の原動力となっていたピレス選手の存在が大きくクローズアップされました。

メスでは162試合に出場・43得点を記録

7番(マルセイユ:1998-2000)

1998-99シーズン、マルセイユに移籍。

このシーズンはマルセイユにとって100周年の記念すべきシーズンで、ピレス選手は100周年に華を添えるかたちで大活躍しUEFAカップで準優勝、国内リーグでも2位と好成績を残しました。

しかし、翌シーズンはキャプテンに任命されますがチームは低迷し、一部の過激なサポーターが主要選手の車を襲う等問題が多発、このシーズン限りでフランスを離れました。

マルセイユでは66試合に出場・8得点を記録しています。

7番(アーセナル:2000-2006)

2000-01シーズン、レアルマドリード移籍が実現間近だったにもかかわらずアーセナルに加入。

ちなみにアーセナル移籍に関しては、ベンゲル監督(当時)からの熱心な説得によるものだそうです。

加入当初はプレミアリーグのフィジカルに戸惑い、「ひ弱すぎる」という批判にさらされていましたが、ピレス選手の才能を信じたヴェンゲル監督はその後も我慢強く使い続け、ピレス選手の能力を引き出すことに成功。

アンリ選手、ヴィエラ選手、ヴィルトール選手とともに形成した『フレンチ・コネクション』はリーグを席巻し、中でもアンリ選手との名コンビはファンを熱狂の渦に巻きました。

自らゴール前に顔を出すセンスにも長けておりMFながら在籍6年間で通算84ゴールを記録しています。

さらにソルキャンベル選手、アシュリーコール選手といった攻守にタレントが揃ったチームは、2001-02シーズンにプレミアリーグとFAカップの2冠を達成。

そして2003-04シーズンに前人未到のプレミアリーグ無敗優勝を成し遂げるなど、文字通り敵なしの強さを誇っていました。

2001-02シーズンには記者協会(FWA)が選ぶリーグ年間最優秀選手に選出。

また当時は、世界最高の左WGと言われたライアンギグス選手を差し置いて入団2年目以降は殆ど毎年のようにリーグの年間ベスト11に名を連ねてました。

7番(ビジャレアル:2006-2010)

アーセナルでは負傷や若手の台頭もあり、レギュラーの座を明け渡すようになり2006-07シーズンからビジャレアルに加入。

しかし開幕前の負傷(左膝十字靭帯断裂)で入団1年目をほぼ棒に振ってしまいます。

アーセナル時代の輝き取り戻してほしい2007-08シーズンは主力としてチームをリーグ2位に飛躍させる活躍をみせました。

2008年以降、技術的には眼を見張るものはありますがフル出場が難しいシーズンを迎えた2010年6月、契約満了でビジャレアルを退団しました。

ビジャレアルでは103試合に出場・13得点をマーク。

8番(アストンビラ:2010-2011)

2010年11月、アストンアストンビラへの加入が発表されました。

ロベール・ピレスがアストン・ヴィラで8番を着用

4年ぶりのプレミアリーグ復帰となり活躍を期待されましたが、わずか9試合の出場(無得点)に留まり、シーズン終了後に退団。

7番(FCゴア:2014-2015)

2014年9月、3年近く無所属が続いていましたがインディアン・スーパーリーグ参戦を表明し、FCゴアへの加入が発表され大きな話題となりました。

インドのサッカーにとって素晴らしい瞬間!!

8試合に出場し1得点を記録するも2015年3月に退団を発表。

翌年の2016年2月25日に現役引退を表明し大きな反響を呼びました。

最新のサッカーニュース:ロベールピレスがサッカーから引退

代表での歴代背番号を調査

13番

1996年8月、メキシコ戦で代表デビューを果たし初招集とは思えぬ活躍を見せ、2対0の勝利に貢献しました。

11番

1998年、クラブ歴代最高成績2位に躍進させた勢いをそのままにワールドカップ・フランス大会に招集され、皇帝ジダン選手と好連携でフランスの初優勝に大きく貢献しました。

のちにピレス選手は当時のチームについて・・・

「正しいスピリットを持って同じように進めば優勝できる。デシャンはチーム内に良い雰囲気を作り出したと思う。W杯でのベストチームだったかどうかは分からないが、最も才能のあるチームだった。だからこそ優勝できたのだと思う」

とインタビューで語っていました。

また、UEFA EURO 2000の決勝ではトレゼゲ選手のゴールデンゴールをアシスト。

7番

これまでチームを統率していました闘将デシャン選手の背番号を継承。

★ FIFAコンフェデレーションズカップ2001優勝。

代表での戦いに大きく貢献しますが、2002年のワールドカップ・日韓大会では大会前に右膝の靭帯断裂のため招集外や、レイモンドメネク監督(当時)監督との確執が生じ2004年10月以降から代表に招集されなくなるなど、代表で活躍する姿は意外と少ないという印象ですね。

そのままフェードアウトという流れになりましたが、今でもドメネク監督(当時)との確執は多くのファンの語り草となっています。

現在の活動も気になる

現在は解説者、アーセナルのアンバサダー(広報・宣伝の分野における大使、いわゆるイメージキャラクターのような意味で使われることもある。)として活動していました。

またスペイン紙によると、ピレス選手はラ・リーガのアンバサダーとしても活動しており、マレーシアのトゥンク・イスマイル・イドリス王子によるバレンシア買収騒ぎにピレス選手が一役買っていたと言う報道もありました。

ちなみに2017年にはアーセンベンゲル監督(当時)のもとでトップチームのコーチに就任しています。

私なりのまとめ

引退後のインタビューではスペインやイングランドで監督をやってみたいと言っており、選手時代の偉大な功績からして、アーセナルの監督として現場復帰してもらいたいと多くのファンも望んでいると思います。

これから指導者として現場に戻ってくるのか、それともフロントとしてチームを裏から支えるのか、今後の展開に期待したいですね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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