アンリ 歴代の背番号を調査!現在についても気になる

こんにちは、圧倒的なスピードど抜群の得点感覚で、フランス代表・アーセナルで一時代を築きましたティエリ アンリ選手。

アーセナルでの神がかったプレーには、今でも多くのグーナーから支持されています。

今回はそんな、アンリ選手についてまとめてみました。

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プロフィール

本名:ティエリ・ダニエル・アンリ

愛称:ティティ

生年月日:1977年8月17日

出身地:フランス・エソンヌ県レ・ジュリス

身長:188cm

体重:83kg(現役時)

ポジション:FW

利き足:右足

【プレースタイル】

  • 一瞬で置き去りにするスピードと靭やかに交わす緩急のドリブルを使い分け相手ディフェンダーを混乱させる
  • 超一流の足元の技術を活かし、ワンツー等を絡めた周囲との細かい連携でゴール前へ切り込む
  • アンリーゾーンと言われる左斜め45度からのシュートでゴールを量産
  • 正確無比なキック力で直接フリーキックを担当
  • パサーとしても非常にレベルが高く、決定的なパス(スルーパス等)で数多くの好機を演出
  • 戦術理解度が高く、崩しだけで無く組み立ての局面にも頻繁に顔を出すなど、攻撃面ではオールマイティー(空中戦以外)にこなせる

歴代の背番号を調査!

28番→12番(ASモナコ:1994-1996→1996-1999)

フランスの名門育成組織・クレールフォンテーヌで英才教育を受け、在籍中からチェックしていたという、ASモナコの下部組織に入団。

下部組織でゴールを量産していたアンリ選手の才能を評価し、ヴェンゲル監督がトップチームに引き上げます。

1994年8月のニース戦(0-2敗戦)でウィングとしてリーグデビューすると「特別なものを感じた」と後にヴェンゲル氏は当時のアンリ選手について語っています。

1995-96シーズンは昨シーズンよりも10試合多いリーグ戦・18試合に出場、チームを6位から3位に導く活躍をみせ、1996-97シーズンからは不動のエースとして、リーグ戦36試合出場・9得点でチームのリーグ優勝に大きく貢献。

リーグアン年間最優秀若手選手に選出、さらにUEFAカップでも初得点を記録するなど世界的に注目されました。

1997-98シーズンも開幕からチームを牽引しリーグ戦30試合に出場 トロフェ・デ・シャンピオン(スーパーカップ)優勝に貢献。チャンピオンズリーグでもフランス人選手最高記録となる大会7得点をあげて、チームを準決勝に導きました。

1998-99シーズン途中に起用法を巡ってジャンディガナ監督と衝突してしまい退団へと発展。

  • 1994-95 リーグ戦 8試合・3得点
  • 1995-96 リーグ戦 18試合・3得点
  • 1996-97 リーグ戦 36試合・9得点
  • 1997-98 リーグ戦 30試合・4得点
  • 1998-99 リーグ戦 13試合・1得点

6番(ユベントス:1999)

1999年1月、移籍金1050万ポンドで加入しますがわずか7ヶ月で退団。

イタリアを去る理由としては・・・

  • 左サイドの中盤や左ウイングバックという不慣れなポジションでの出場を余儀なくされた
  • ユベントスに加入したとき、たくさんの問題があった
  • チームの状況は良くなかった
  • アンチェロッティが指揮する3-5-2システムにフィットすることができてなかった

また「イタリアでは本当に退屈な試合がある。アクションも、攻撃的な姿勢もなにもない、本当につまらないゲームがね。そんなスタイルが一番、性に合わないんだ。」と後にインタビューで語っています。

さらにユベントス退団については「カルチョスキャンダル(八百長)」の首謀者として有名な当時の幹部・ルチアーノモッジ氏と確執が影響したことも『SKY』のインタビューで述べていました。

「モッジとの間に問題が生じていたんだ。当時の俺は正直で真面目な青年だったが、モッジからは俺に対する敬意が感じられなかった。だからユベントスでプレーする気がなくなってしまい、退団に至ってしまった。もしモッジとの確執がなければ、ユベントスでプレーを続けていたと思うよ」

しかしモッジ氏は違った解釈があるみたいです。

「あれは失敗どころか大きな成功だ。アーセナルに320億リラ(約10億円)で売れたんだ。大きなビジネスだと言うべきだよ。ユーヴェ時代のアンリはまだ若すぎた。カウンターアタックでは機能したが、当時はそれだけの選手でしかなった。ただ、リッピはそうでもなかったが、アンチェロッティはアンリの潜在能力を大いに認めていたものさ。仮にアーセナルに移籍しなかったとしても、いずれ大きく飛躍したはずだ。」

・1999 リーグ戦 16試合・3得点

14番→12番(アーセナル:1999-2007→2012)

ベンゲル監督からの熱烈な誘いもあり1999年8月に入団。

移籍金約22億円でレアルマドリードへ移籍したニコラアネルカ選手の後継として、ベンゲル監督はアンリ選手をウイングからセンターフォワードにコンバートさせます。

守備の負担が軽減され、ある程度自由を得たことでプレミアムリーグでその才能が一気に開花し、1年目から得点ランク6位に入る17得点を記録。2000-01シーズンにも2年連続で17得点をマークし得点ランク3位。

3年目に入った2001-02シーズンには24ゴールで得点王を獲得しストライカーとして完全に覚醒。

マンチェスターユナイテッドを王者から引きずり下ろしての4年ぶり2度目のリーグ優勝・さらに4年ぶりのFA杯優勝の2冠達成に大きく貢献。2002-03シーズンも2年連続で24得点(得点ランク2位)を記録し、PFA(プロ選手協会)&FWA(記者協会)ともにシーズン最優秀選手を獲得します。

さらに2003-04シーズンにはリヴァプール戦でのハットトリックやリーズ戦での4ゴールなど30得点で得点王を獲得し、プレミア史上唯一の無敗優勝の立役者となりました。

プレミア得点王、PFA(プロ選手協会)&FWA(記者協会)の優秀選手、ゴールデンシュー(ヨーロッパリーグで最もゴールを決めた選手に贈られる)と個人賞で4冠を達成。まさに異次元のパフォーマンスを見せました。

その後も抜群の決定力で2004-05シーズンには25得点、2005-06シーズンに27得点を記録で3年連続で得点王に輝きます。

ちなみにこの記録は、アランシアラー選手に並ぶ3年連続のトップスコアラー、そして通算4回目の得点王はプレミア記録となっています。

「アーセナルはつねにアタックマインドだ。プレミアはどのチームも攻撃的で、いまは最高に楽しいよ」

当時のことを語っています。

2006-07シーズンは怪我で大半の試合を欠場し得点王連続記録もここで途絶えチームも4位に。

ベルカンプ選手の引退やピレス選手、ソルキャンベル選手、アシュリーコール選手ら主力の退団、アデバヨール選手やファンペルシー選手の台頭など急速な世代交代の影響もあり退団へ。

2012年1月にはジェルヴィーニョ選手とマルアーヌシャマフ選手が「アフリカネイションズカップ2012」への参加のためチームを離れた穴を埋めるために、シーズンオフを利用して2ヶ月間のレンタルで復帰(背番号12)。

すでに34歳になってピークは過ぎていましたが、スーパーサブとしてリーズとのFA杯・サンダーランドとのリーグで決勝ゴールを挙げるなど公式戦7試合出場で2得点を挙げて、るなど、短期間ながらきっちりと記録を残しました。

アンリ選手の活躍には、今でも多くのグーナーから熱い支持を得ています。

アーセナル[6]ほどゴールデンブーツの勝者がいるクラブはありません。

ティエリ・アンリは、4で最も多くのゴールデンブーツ賞を受賞しています。

プレミアリーググレイテスト

  • 1999-00 リーグ戦 31試合・17得点
  • 2000-01 リーグ戦 35試合・17得点
  • 2001-02 リーグ戦 33試合・24得点
  • 2002-03 リーグ戦 37試合・24得点
  • 2003-04 リーグ戦 37試合・30得点
  • 2004-05 リーグ戦 32試合・25得点
  • 2005-06 リーグ戦 32試合・27得点
  • 2006-07 リーグ戦 17試合・10得点
  • 2012 リーグ戦 4試合・2得点

14番(バルセロナ:2007-2010)

2007年6月に移籍金2400万ユーロで入団。

入団については戦力的な補強もありますが、モチベーション低下により無冠に終わった昨シーズン、チーム内の競争を煽るため、また若手の教育係として期待がかかっていました。

2007/08シーズンのバルセロナでのトレーニングセッション中のヤヤトゥーレ、サミュエルエトー、ロナウジーニョ、ティエリアンリ

その事が功を奏し、サボり癖のあったロナウジーニョ選手はシーズン前から目の色を変えてトレーニングに励んだといいます。

開幕当初は、ロナウジーニョ選手、エトー選手、メッシ選手と形成する攻撃陣を「ファンタスティック4」と呼ばれ注目を集めていましたが、スペインサッカーのスタイルに戸惑い、また左ウイング起用に徹することで終始低調なプレーが続き30試合12得点に留まり、2年連続無冠に終わった戦犯として批判を浴びました。

2年目の2008-09シーズン、開幕当初は低調なパフォーマンスで期待外れかと思いきや、シーズン中盤に得点能力が開眼。プレミア時代には異なるスタイルで存在感を発揮し、リーグ戦19得点を挙げ、史上初の三冠達成(リーグ・チャンピオンズリーグ・国王杯)に貢献。

しかし昨シーズンとはうってかわり、2009-10シーズンは終始単調なプレーを繰り返しまた、ペドロロドリゲス選手の台頭もあり、ベンチ要員になってしまいます。

さらにチームは財政難(総額500億円以上の債務)に陥り人件費削減のためシーズン終了後に契約解除となりました。

  • 2007-08 リーグ戦 30試合・12得点
  • 2008-09 リーグ戦 29試合・19得点
  • 2009-10 リーグ戦 21試合・4得点

14番(ニューヨークレッドブルズ:2010-2014)

2010年7月、特別指定選手制度を用いてマルケス選手とともに加入。(複数年契約)

7月のヒューストン戦でデビュー、8月のサンノゼ戦で初ゴールを挙げ、サッカー不毛の地と言わたMLSでマルケス選手と共にチーム力を上げると、2年目の2011シーズンには14得点、2012シーズンは15得点、2013シーズンは10得点、2014シーズンは10得点と4年連続の2ケタゴールを達成し多くのファンを熱狂させました。

2014年12月、レッドブルズがアンリ選手の退団が発表、15日には自身のFacebookで現役引退を表明しました。

MLSで通算122試合出場51ゴールを記録。通算42アシストは当時のクラブ歴代最多記録となっています。

今日のティエリアンリの誕生日。彼がレッドブルズで獲得したこれらのワールドクラスのゴールを振り返ってみましょう。

  • 2010 リーグ戦 11試合・2得点
  • 2011 リーグ戦 26試合・14得点
  • 2012 リーグ戦 25試合・15得点
  • 2013 リーグ戦 30試合・10得点
  • 2014 リーグ戦 30試合・10得点

代表の歴代背番号を調査

母国開催の欧州U-19選手権で、決勝のスペイン戦で決勝弾を決めて優勝に貢献。

12番

★1997年10月に行われました親善試合・南アフリカ戦でA代表デビューを果たしました。

1997年10月11日、南アフリカに対して2対1で勝利したティエリアンリの国際デビュー。

★「1998 フランスワールドカップ」に選出され、決勝のブラジル戦以外の6試合に出場(3得点)しフランスの優勝に貢献。

★以降は不動のレギュラーとして「EURO 2000」出場、3得点で優勝に導く活躍をみせました。

ティエリ・アンリは、EURO2000決勝戦の前にパオロマルディーニと握手を交わしています。フランスがトーナメントで優勝し、ヘンリーが彼らの最高得点者でした。

[マーク・リーチ、2000年]

★「2002 日韓ワールドカップ」ではグループリーグ2戦目のウルグアイ戦でレッドカードで退場、そのまま3戦目のデンマーク戦に出場できずグループリーグ敗退の戦犯とされてしまいました。

2002年の写真-ティエリ・アンリが#FIFAワールドカップのグループステージのために釜山に退場した後、フランスの選手が審判と議論するのをパオロ・モンテーロが見ています

★「EURO 2004」でも精彩を欠いてしまい決勝トーナメント1回戦でギリシャ(優勝)に敗退。

★「2006 ドイツワールドカップ」では3得点を決めチームの準優勝に貢献。

2006年ワールドカップでのティエリアンリ。

ジダンの頭突きがなかったら、フランスは2度目のワールドカップで優勝したでしょうか。

★「EURO 2008」予選ではチーム最多の6得点を記録し、本大会出場に導きますが、本大会ではオランダ戦の1得点だけにとどまりグループリーグ敗退。

ティエリ・アンリ対ジョルジョ・キエッリーニ、ユーロ2008。

★「2010 南アフリカワールドカップ(グループリーグ敗退)」欧州予選では11試合でチーム最多タイの4ゴールを記録。しかしプレーオフのアイルランド戦でウィリアムギャラス選手の決勝ゴールのアシスト(ハンドを犯す)が大きな議論となります。

悪い流れのまま本大会に出場しますが、チームの内紛も勃発するなど、2試合の途中出場に終わりグループリーグ敗退。

10年前の今日、ティエリアンリによる物議を醸すハンドボールは、フランスが2010年ワールドカップに出場するのを助け、アイルランド共和国を排除しました。

大会終了後に代表からの引退を表明。キャップ数は122試合・51得点を記録しています。

現在は?

2023年8月にU21 フランス代表監督に就任しています。

ティエリ アンリ フランスのエスポワールチームのコーチに任命、2025 年まで

元代表選手は、2025年ユーロU21予選と2024年パリオリンピックに向けてブルーエを率いることになる

現役引退以降は『スカイ』の解説者を務める傍ら、指導者キャリアをスタートさせました。

アーセナルで指導者としての経験を積み、2016年3月にUEFAの指導者ライセンスAを修得。

その後、アーセナルのU-18チームのコーチを務めていましたが、2016年6月に辞任し8月にベルギー代表のアシスタントコーチに就任しました。

2018年10月にはASモナコの監督に就任しますが、成績不振で2019年1月に解任。

2019年11月からはMLSのモントリオールインパクトを率いていましたが、家庭の事情で2021年2月に辞任。

2021年8月に再びベルギー代表のアシスタントコーチに就任し「2022 カタールワールドカップ」まで勤めていました。

私なりのまとめ

指導者としてアーセナルにいつ戻って来るのか気になりますが、これからの動向に注目ですね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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