マケレレ 歴代の背番号を調査!なぜレアルが放出したのか気になる

こんにちは、サッカー史上最高峰の守備のクラッキとして、フランス代表や各クラブチームで多くの勝利に貢献してきましたクロードマケレレ選手。

守備力が凄すぎて一見、守備だけの選手と捉えられがちですが、実は攻撃も素晴らしい才能を持っています。

今回、そんなマケレレ選手についてまとめてみました。

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プロフィール

本名:クロード・マケレレ・サンダ

愛称:Maka

生年月日:1973年2月18日

出身地:コンゴ民主共和国(旧ザイール)キンシャサ→フランス サヴィニー=ル=タンプル

身長:174cm

体重:66kg(現役時)

ポジション:MF(DMF)

利き足:右足

【プレースタイル】

  • 無尽蔵のスタミナ。
  • 鋭い危機察知能力で素早く味方の空けたスペースを埋める。
  • 相手との駆け引きが強くボール奪取能力が高い。(球際が強い)
  • 的確なポジショニングから正確なショートパスで攻撃陣につなげる。
  • 体幹が強くめったに倒れない。

歴代の背番号を調査!

ザイールで生まれていますが、キンシャサの記憶はほとんどないそうです。

4歳でフランスへ移住。15歳の頃、USムランに加入してリリアンテュラム選手らとともにプレーしていました。

翌年、ブレストの下部組織に加入しプレースタイルの基礎を築いていきます。

1991年にナントから誘いを受け、1992-93シーズンにはトップチームに昇格。

ちなみに父親のアンドレ=ジョセフ氏も元ザイール代表で欧州でもプレーした優秀なサッカー選手でした。

7番(FCナント:1992-1997)

1992年8月8日のメッツ戦でリーグ・アンデビューを飾りました。

ナント時代は守備的MFというより中盤のダイナモという存在でした。

  • 小柄だが敏捷。
  • 運動量が図抜けていた。
  • テクニックも文句なし。

ということで長身のヤフェットエンドラム選手(元チャド代表)との凸凹コンビはナント躍進の原動力となっていました。

またクリスティアンカランブー選手(元フランス代表)といったタレントも揃っており、

★ 1994-95シーズンのリーグ・アン優勝。

★ 1994-95シーズンのUEFAカップベスト4進出。

ナント最強時代と言われていました。

カレンブーやマケレレのようなプレーヤーが自分自身を示したのはこのゲームでした。 1994/95年、パトリス・ロコが22ゴールでトップスコアラーになり、ナントが無敗のチャンピオンチームになりました。

キャリアハイの5ゴールを挙げた1996-97シーズンが終了した後、国内一の名門クラブであるマルセイユに移籍となりました。

ナントでは169試合に出場・9得点を記録しています。

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7番(マルセイユ:1997-1998)

ステップアップの移籍ではありましたが・・

  • 中盤のポジションではなく主に右サイドバックで起用される。
  •  監督との確執。

などの問題があり在籍わずか1年で移籍を決意しました。

それでもマルセイユでは、32試合に出場・2得点を記録しています。

23番(セルタ:1998-2000)

1998-99シーズンからラ・リーガ1部のセルタ(当時はセルタビーゴ)へ移籍します。

セルタではアレクサンドルモストボイ選手や、ヴァレリーカルピン選手といった攻撃のタレントがいる中、マケレレ選手が中盤の柱となり、数字には表われない部分で大きな役割を果たし、2シーズンでリーガ・エスパニョーラでは5位、7位と上位につけ、UEFAカップでは2年連続で8強入りを果たすなど、クラブ史上最も好成績をもたらす活躍をしました。

そして、全ての試合においてほぼノーミスで仕事をこなすマケレレ選手に対して、ついに白い巨人・レアルマドリードからのオファーが届きます。

ただ移籍に関して当初、セルタはレアルから送られたオファーの額に満足せず、頑なに拒否していました。

そこでマケレレ選手が練習を拒否やマルク・ロジェ氏(代理人)によると・・・

「セルタに認めさせるために、我々は警察に訴えた。ファンが選手の車を攻撃したと。しかし、彼(マケレレ)の車の窓に石を投げつけたのは私だ。マケレレももちろん同意していた」

といった強硬姿勢に出て、最終的には1400万ユーロ(およそ18.4億円)での売却を余儀なくされたというエピソードもあります。

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24番(レアルマドリード:2000-2003)

フェルナンドレドンド選手(ACミランへ移籍)の穴を埋める存在として、中盤の底に置かれましたが当初は出来が悪く、メディアからも酷評されていました。

  • 無尽蔵なスタミナを活かして中盤を広くカバー。
  • 安易な横パスに逃げることなく、効果的な縦パスで攻撃を演出。

といったスタイル(後にマケレレ・ロールと呼ばれる)を確立させていきます。

フィーゴ選手、ジダン選手、ロナウド選手など超攻撃的サッカーを標榜するスター集団の中において、中盤の守備を担うハードワーカーとして活躍。

★ 2001-02シーズンのチャンピオンズリーグ優勝。

★ 2000-01、2002-03シーズンのリーガ制覇。

★ 2002年のインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)獲得。

とビッグタイトル獲得に大きく貢献し、チームメイトが口々に「バロンドールはマケレレが受賞すべき」と主張するなどレアルマドリードには無くてはならない存在となりました。

リーグ戦は94試合に出場・無得点を記録。

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4番(チェルシー:2003-2008)

2003年9月、チェルシーFCへ移籍。

プレミアリーグ初挑戦で、そのスピードに面食らうも、すぐに「マケレレ・ロール」で新たなチームの中盤の底に君臨。

移籍初年度はリーグ2位、CLは準決勝敗退とタイトルにはあと少しで手が届きませんでしたが、チームの黒子としての堅実なプレーで中盤を安定させ、ランパード選手が積極的に攻撃に関与するチーム戦術が確立していきます。

2004年にジョゼモウリーニョ監督(当時)が就任すると・・・

★ 2004-05シーズン、プレミアリーグとフットボールリーグカップを制覇。

★ 2005-06シーズンにはリーグ連覇を達成。

★ 2006-07シーズンはFAカップとリーグカップの2冠を獲得。

全てのコンペティションでフル稼働し続け、安定したプレーぶりで勝利に貢献

また個人としても「国際プロサッカー選手会(FIFPro)のベストイレブン(2005年)」・「2006年チェルシーの年間最優秀選手に選出」などさらに存在価値を上げました。

そしてチャンピオンズリーグ決勝、マンチェスターユナイテッド戦(PK戦)に敗退した07-08シーズンを最後に、チェルシーを退団。

チェルシーでは144試合に出場・2得点を記録しています。

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4番(パリサンジェルマン:2008-2011)

2008年7月21日、フリートランスファーでパリ・サンジェルマンへ移籍しキャプテンに就任。

2011年までの3シーズンでいずれもリーグ戦30試合以上(TOTAL98試合)に出場・1得点を記録しています。

2009-10シーズンにはフランス・カップ優勝に貢献しました。

しかし全盛期をしっている一部のファンからは、パリサンジェルマンでのプレーは「今ひとつ」という声も上がっていました。

そんな危惧もある中、2010-11シーズン終了後に現役引退を発表。大きな話題に。

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代表の歴代背番号を調査

7番

1995年7月22日のノルウェー戦でフランス代表デビューを果たしますが、A代表にはなかなか定着できず、フランスが栄光を手にした98年フランス・ワールドカップ、EURO2000のメンバーに入ることはできませんでした。

2002年の日韓W杯に招集されますがセネガル戦の1試合と出場機会に恵まれず、またFWの不調やエース・ジダン選手の故障も響きグループリーグ敗退。

前回大会王者の早期の敗退に、多くのファンが騒然となりました。

6番

EURO2004では3試合に先発出場し、準々決勝進出に貢献します。

準々決勝のギリシャ戦、果敢に相手ゴールに迫る場面もありましたが、チームは1点を奪えずに0-1で敗退となり、大会後にテュラム選手、リザラス選手、デサイー選手そしてジダン選手と同世代の選手たちに続いての代表引退を宣言。

理由は「若い世代に道を譲る時期が来た」と次のワールドカップのためにも、若い選手たちに経験を積ませる必要があると考えたからということです。

しかし2006年ドイツW杯予選、フランス代表は予選敗退の危機を迎えていたため、レイモンドメネク監督に請われて復帰を決意し、本大会にも出場。

イタリアとの決勝をPK戦で落として世界制覇はならなかったものの、マケレレ選手はヴィエラ選手とともに中盤の底で奮闘、7試合でわずか3失点という堅守に貢献し、改めてその力を示しました。

W杯終了後に地元のTV局のインタビューで代表引退を明らかにしましたが、またEURO2008の予選でドメネク監督(当時)によって招集され、モウリーニョ監督を巻き込み騒動となります。

EURO2008本大会にも招集されますが、チームはグループリーグ敗退。

改めて代表引退となり、A代表では70試合に出場(無得点)していました。

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なぜレアルが放出したのか?

マケレレ選手といったらレアルマドリードからチェルシーへの移籍ですね。

あれだけレアルマドリードに貢献していたのに「なぜ?」というファンも多かったと思います。

理由は、当時ペレス会長や上層部は銀河系軍団に本腰を入れており、フィーゴ選手をかわきりにロナウド選手、ジダン選手、ベッカム選手とビックネームを大枚を叩いて獲得していくわけですが、マケレレ選手やイエロ等の守備の選手には給料を出し渋りました。

マケレレ選手を銀河系としては扱われずに年俸もベッカム選手の5分の1でした。

2003年8月、移籍か増給を求めてチームの練習をボイコットするなど、年俸の引き上げを要求。

一時は合意に達するもクラブ側が最終的には年俸アップを拒否したため移籍を決意。

「お金と健康の事を考えて、レアルを出ることを決めた」

とマケレレ選手はコメント、移籍が実現しなかったら引退の可能性もあったといいます。

レアルもなかなか手放そうとはしませんでしたが、獲得に意欲を燃やしたチェルシーの移籍金およそ2,300万ユーロ(約31億5,100万円)で合意しました。

この内紛スキャンダルは当時のサッカー界を賑わせました。

「代えのきかない必要不可欠な選手」とカシージャス選手やエルゲラ選手が言っていた通りマケレレ選手の移籍後、中盤が崩れていったレアルは、その穴を埋めるのに四苦八苦したのは有名なところです。

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引退後について

現役引退後はそのままパリSGに残留し、カルロ・アンチェロッティ監督の要請を受けてアシスタントコーチに就任しました。

● 2014-2015シーズンからリーグ・アンのSCバスティアの監督に就任。(12試合で2勝しか挙げられず、11月3日に解任)

● 2017年1月12日、スウォンジー・シティAFCのアシスタントコーチに。(11月6日、スウォンジーとの合意の下で契約を解除)

● ジュピラー・プロ・リーグ(ベルギー1部)に所属するKASオイペンの指揮官に就任。

当時在籍していた豊川雄太選手(セレッソ大阪)を指導していたことが話題になりました。

最下位だったチームを立て直し2017-18シーズン・2018-19シーズンの1部残留を果たすと、2019年6月に退任となります。

2019年8月からチェルシーにコーチとして復帰。現在はアカデミーで若手を指導しています。

私なりのまとめ

現在は指導者として若い才能を育成しているところを見ると、近い将来、必ず第2・第3・第4のマケレレが誕生することでしょう。

そしてメッシ選手やネイマール選手のような攻撃力が今はトレンドですが、今後はマケレレ選手のようなプレースタイルがトレンドになることも考えられますね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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