フィーゴ 歴代の背番号を調査!現在の活動も気になる

こんにちは、独創的なプレーでクラブチームやポルトガル代表で多くの勝利を掴んできましたルイスフィーゴ選手。

特にバルセロナからレアルマドリードへの禁断の移籍は、多くのファンに大きな衝撃を今でも語り草となっています。

今回はそんなフィーゴ選手についてまとめてみました。

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プロフィール

本名:ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ

愛称:フィーゴ、白豹

生年月日:1972年11月4日

出身地:リスボン

身長:180cm

体重:75kg(現役時)

ポジション:MF / FW

利き足:右足

【プレースタイル】

  • スピードでぶち切る直線的なドリブルではなく、緩急を駆使した独特のリズムとタイミングで抜いていくドリブル。
  • ほんの僅かなスペースでも合わせられる正確無比のクロス。
  • どこからでも決められるシュートセンス。
  • 足腰の強さ、体幹筋の強さが際立っており怪我が少ない。

歴代の背番号を調査!

幼少期からストリートサッカーでその技を磨き、早くもその才能を見せていたといいます。

また、少年時代から学業の成績が良く、将来の夢は医者だと言っても誰も反発しなかったそうです。

11歳の時、スポルティングCPの下部組織に入団する際、学力のあまりの良さに同意書には「サッカーに専念すること」というような内容が書かれていたということでした。

24番→7番(スポルティングCP:1989-1995)

1989年からトップチームに昇格すると90年4月1日、マリティモ戦でトップチームデビューを飾ります。(背番号 24)

デビュー3シーズン目でレギュラーに定着(背番号 7)すると、91年12月7日のトーレエンセ戦で初ゴールを記録。

1990年4月1日に1989-90シーズンにマルロンブランドンの代わりとして、マリティモとのホームでの1-0の勝利でリーグデビューを果たしました。

以降は95年までの在籍期間中、毎シーズン30試合以上に出場しリーグでは計16ゴールを記録。

1994年にプリメイラ・リーガ最優秀選手、1995年ポルトガル最優秀選手に選出ました。

1989年から1995年まで、彼は最初のチームで158回プレーし、23ゴールを記録し、ポルトガルカップで優勝しました。

7番(FCバルセロナ:1995-2000)

スポルティングでの活躍で当時の世界一のリーグ、イタリア・セリエAのユベントスかパルマかの移籍間近となりましたが、二重契約問題が噴出し2年間の間イタリアのクラブと契約を締結する事を禁止されました。

1995年に移籍金225万ポンドでFCバルセロナへ移籍。

90年代前半を彩った「ドリームチーム」が解体され、新たな時代を迎えようとしていたバルサですぐに主力となり、その破壊力抜群の突破力とチャンスメイクで右サイドを支配し1年目から35試合に出場。

翌シーズンには怪物・ロナウドとの共演で初の欧州タイトル、カップウィナーズ・カップを手にします。

そして97-98シーズンには、新加入リバウドらとともに、バルサに4年ぶりのリーグタイトルをもたらし、コパ・デル・レイとの二冠も達成するなどドリーム・チーム以降のバルセロナのシンボルとして絶大な支持を得ました。

翌シーズンにはキャリアハイの9得点を挙げて存在感を増しつつも・・・この時、宿敵レアル・マドリーの新たな会長となったフロレンティーノ・ペレス氏と接触していたそうです。

エンゴンガの前のルイス・フィーゴ。

バルセロナは98/99シーズンのこのゲームでレアルマヨルカを2-1で下しました。

フランク・デ・ブールとクライファートが地元のゴールを決め、ビアジーニがペナルティからビジターを決めた。カルモナメンデスが仲裁した。

バルセロナでは172試合に出場・30得点を記録。

10番(レアルマドリード:2000-2005)

2000年7月、レアルマドリードに6000万ユーロの金額で電撃移籍を発表。

禁断の移籍をした瞬間からバルセロニスタの憎悪を一身に浴びる「裏切り者」となり、自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという大変な騒動にまで発展。

バルセロナのホームスタジアム、カンプ・ノウに初めて乗り込んだ試合ではフィーゴ選手がボールに触れれば即ブーイングが起き、フィーゴ選手がコーナーキックを蹴ろうとすればスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには豚の顔の皮まで投げ入れられるなどして、約10分間試合が中断されるなど荒れに荒れました。(結果は2-0でバルセロナが勝利しています。)

以降も「金の亡者」と罵られ続けることとなりました。

「私は、カタルーニャで一番嫌われた人間だ。それは受け入れるつもりだ。バルサを出てマドリーに行ったんだ。人々が怒るのも当然だ」

「しかしひとつ言えるのが、バルセロナではとても幸せだったということ。バルサのユニフォームを着てプレーしたことは、今も誇りに思っている」

と心を痛めた反面、マドリードではさらにプレーエリアを広げ、中央でのチャンスメーカーとしての能力もアップさせこれまで以上に勝敗を左右する重要な存在となりました。

  • 移籍1シーズン目でリーガ制覇。
  • 2001年にFIFA最優秀選手賞を受賞。
  • 2002年にはチャンピオンズリーグ優勝。
  • 横浜でトヨタカップ世界一に。
  • リーガ通算100アシスト達成。

と銀河系軍団の先鞭を着けた存在として、計7つのタイトルを獲得し輝かしいクラブ史にその名を残しました。

2005年までのマドリーでの5シーズンはフィーゴ選手の絶頂の時期を象徴しています。

しかし、2004-05シーズンは銀河系政策が進みポジション争いが激化したことやルシェンブルゴ監督との確執により出場機会が減少し限界説が囁かれました。

レアル在籍時は164試合に出場し38得点を記録。

フロレンティーノ・ペレスが2回目の会長職のためにレアル・マドリードに戻って以来、クラブの採用哲学は変わりました。ターゲットは世界のサッカーの偉大なスターになり、それはすべてルイス・フィーゴから始まりました。このようにして銀河の時代が始まりました

7番(インテルミラノ:2005-2009)

2005-06シーズンからは半ば喧嘩別れに近い形でインテルへ移籍。

新たな環境でその経験と突破力は十分に通用し、主力としてセリエAでもUEFAチャンピオンズリーグでも中盤の右サイドで活躍。

05-06シーズンは3位に終わっていたものの、ユベントスやACミランの八百長疑惑の裁定で繰り上げ優勝となり、在籍4シーズン全てのリーグ制覇に貢献しました。

2007-08シーズン、起用法などから徐々にロベルトマンチーニ監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」と発言が話題となりました。

2008-09シーズン、退団の噂がありましたがジョゼモウリーニョ氏が監督に就任し、「経験を活かし、若手の指南役になって欲しい」との意見を聞きインテルに残留。

2009年5月31日のアタランタ戦を最後に現役を引退。インテルでは105試合出場・9得点をマークしています。

代表歴代背番号を調査

1991年にはポルトガルU-20代表としてFIFAワールドユース選手権優勝に貢献。ルイコスタ選手、パウロソウザ選手、フェルナンドコウト選手、ジョアンピント選手等と共にポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション(黄金の世代)」と呼ばれました。

20番

ワールドユースの活躍により1991年10月、ルクセンブルクとの親善試合で代表デビューを飾ると、EURO1996からはポルトガルの主軸として活躍します。

ユーロではクロアチア戦で先制ゴールを決めグループステージを首位通過に大きく貢献。

7番

「ゴールデン・ジェネレーション(黄金の世代)」ともに代表を牽引する存在となります。

EURO2000年ではイングランド戦でミドルシュートを決めた他、準々決勝トルコ戦では2アシストで勝利し、準決勝進出に貢献。

子供の頃に着ていた古いサッカーシャツのいくつかにまだ押し込めたらいいのにと思いませんか?このポルトガルのシャツ、グリーンショーツ、ルイスフィーゴの観戦での思い出は、ユーロ2000でイングランドを破るために2-0から戻ってくる絶対的なロケットを獲得しました。

ポルトガルにとって16年ぶりの出場となった2002日韓ワールドカップで世界中から注目されるも、プレッシャーに負けてしまいポルトガルはアメリカ、韓国に敗れて無残なグループステージ敗退に終わりました。

EURO2004でもその突破力だけでなく、精神的支柱としても黒星発進のチームを鼓舞して牽引し続け準優勝に貢献しました。

ユーロ2004でルイス・フィーゴを評価:1→10

EURO2004終了時点で一度は代表引退を表明するも、2006年ドイツW杯予選で復帰し、本大会ではキャプテンとしてグループステージ初戦(アンゴラ戦)から準決勝フランス戦まで全ての試合でスタメン入り。

ドイツとの3位決定戦でも後半途中からピッチに立ち、4位の好成績で自身最後の国際大会を終えました。

ルイス・フィーゴ&ジネディーヌ・ジダン-2006年FIFAワールドカップドイツの準決勝。

ポルトガル代表としての成績は127試合出場・34得点。

以降、背番号7番のカリスマ性が高まり、クリスティアーノロナウド選手に引き継がれていきました。

キャップ数は、2016年6月にクリスチアーノロナウド選手に抜かれるまでは、歴代最多を誇っています。

現在の活動も気になる

現在は解説者・コメンテーターとして活動しています。

また引退後は・・・

  • インテルの幹部に就任。
  • インドでフットサル事業を手掛ける。
  • 中国ではアカデミーを経営。
  • 米フロリダで児童・学生向けのプレー動画投稿サービス事業。(2016年)

といった実業家として幅広い活動も行っています。

ちなみに現役時代にはスペインでショットバーを経営したり、寿司屋を経営したりしています。

スペインリーグでプレーしていた城彰二選手ににレアルマドリードでの試合終了後、チョイチョイと手招きをし「俺がやっている寿司屋に来てくれよ。」とさそった話は有名です。

その他にも2005年~2006年シーズンのみ、ロベルトカルロス選手と共にモータースポーツであるA1グランプリのポルトガルチームのオーナーになったり、「実業家の道へと進みホテル王を目指す夢がある」と引退後のビジョンを語っていました。

なので現在も解説者やコメンテーター以外に実業家としても活躍していると思います。

私なりのまとめ

引退後の活動からみますと、指導者としての現場復帰はあまり考えて無いフシが感じられ、おそらく運営側として裏方からサッカー界を支えようとする考えがあるように思います。

将来的には選手時代の偉大な功績や、人脈を活かしてサッカー協会の会長&理事ということも考えられますね。

今後の展開に期待したいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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